2016年12月 9日 (金)

植田忠司弁護士からの削除要請は正当か?

 12月2日、「さぽろぐ運営事務局」(ジェイ・ライン株式会社)から「女性弁護士に暴力をふるった植田忠司弁護士とは・・・」という記事の削除要請があったとの通知がきた。削除要請の依頼人は植田忠司弁護士で、依頼人代理人は野澤健次弁護士である。それにしても、4年以上も前に書いた記事に「何で今ごろ?」と思う。

 インターネットが庶民の生活に深く浸透した現在、ネット上では誹謗中傷やプライバシー侵害、著作権侵害などの権利侵害が溢れている。ゆえに、プロバイダ責任制限法特定電気通信役務提供者損害賠償責任制限及び発信者情報開示 に関する法律)によって、権利侵害があった場合にプロバイダやサーバの管理・運営者が記事の削除ができることになっている。今回の削除要請はこれに基づいている。

 私が本当に権利を侵害しているのなら、記事の修正や削除をしなければならない。ところが、送られてきた「侵害情報の通知書兼送信防止措置に関する照会書」を読んでも、どのような記述が名誉毀損なのか書いておらず、何が問題なのかさっぱりわからない。「あずかり知らぬ情報を記載」したと書かれているが、私が記事に書いたことはすべて公開されている。「あずかり知らぬ情報」とは意味不明だ。

 記事全体が名誉毀損になるとは到底考えられないので、修正で対応したいとさぽろぐ運営事務局に伝えたのだが、記事全体が削除要請の対象だという。まったく訳がわからない。

 権利侵害が誰の目からみても明らかな場合は、プロバイダ責任制限法で記事が削除されても文句は言えない。しかし、権利侵害であるか否かの判断が難しい場合もあるだろう。中には、権利侵害などないにも関わらず、都合の悪い記事を削除させることを目的にこの法律を利用して削除要請する人もいる。そして、権利侵害という言葉に驚いて、あまり深く考えもせずに自ら記事を削除してしまう人もいるかもしれない。

 しかし、もし不当な削除要請であるにも関わらず記事の削除が実行されるようなことになれば言論の自由の侵害になりかねず、由々しきことだ。

 だから、削除要請がきた場合は、正当な削除要請であるかどうかを十分検討する必要があるし、不当な削除要請であれば削除に同意することにはならない。

 今回の削除要請については、さぽろぐ運営事務局に疑問点を問い合わせた上で検討したが、権利侵害があるとは考えられないものだった。私は、不当な削除要請ではないかと考えている。私は過去にも数回削除要請を受けたことがあるが、正当な削除要請だったためしがない。

 以下が、私がジェイ・ライン株式会社に送信した回答書である。

        ********************

                    回答書

                                       2016年12月9日

ジェイ・ライン株式会社 代表取締役 野上尚繁 様

                                       松田まゆみ

 貴社から照会のあった次の侵害情報の取り扱いについて、下記の通り回答します。

【侵害情報の表示】
掲載されている場所 「女性弁護士に暴力をふるった植田忠司弁護士とは…」の記事全文 
http://onigumo.sapolog.com/e340026.html 

掲載されている情報 女性弁護士に暴力をふるった植田忠司弁護士とは…との表題にて、あずかり知らぬ情報を記載した。

侵害されたとする権利 依頼人の社会的評価を低下させる事実を公然と発信(名誉毀損)し、依頼人の業務を妨害した。

【回答内容】
記事を書く動機になった「弁護士自治を考える会」の記事「植田忠司弁護士【埼玉】懲戒処分の要旨」 http://blogs.yahoo.co.jp/nb_ichii/33374421.html
 が削除されれば、送信防止措置(記事の削除)に同意する考えです。

【回答の理由】
1.弁護士の懲戒処分の公表について

 弁護士の懲戒処分は日弁連広報誌「自由と正義」に公告として掲載されているものであり、国民に広く知らしめる公益性の高い情報です。依頼人の暴力や業務停止の処分については現在もマスコミを含めた複数のサイトで公表されております。
 発信人が記事中でリンクさせているサイトの管理人である「弁護士自治を考える会」は、公益目的に活動をしている任意団体で、公告として公表されている弁護士の懲戒処分を継続して公開しています。公告の掲載が名誉毀損に当たるのであればこのサイトに掲載することはできません。しかし、このサイトは2007年に開設され、継続して懲戒処分の情報を掲載しています。したがって、「弁護士自治を考える会」の記事をリンクさせて懲戒処分の事実を記載したことは名誉毀損には該当しないと考えます。
 なお、「弁護士自治を考える会」には現時点では植田弁護士からの削除要請はきておらず、削除要請があっても業務停止の場合は応じないとのことでした。リンク元である「弁護士自治を考える会」のオリジナル記事において名誉毀損云々の問題がなんら生じていない現況で、二次的著作物である発信人の記事を名誉毀損と判断し削除することは本末転倒かつ不当です。

2.依頼人が文芸社から本を出版している事実について
 文芸社は新聞広告などで一般の人たちに自費出版(依頼人が本を出版した頃は共同出資を謳った協力出版)を呼び掛け、悪質な勧誘・商法を行っていた出版社です。このような出版社から弁護士が悪質商法に注意喚起し被害から抜け出すことを謳った本を出版しているという事実は、悪質出版社の信用性を高めるだけではなく、事情を知らない一般の人たちを悪質出版社に誘導することに繋がりかねません。弁護士や著名人の本の刊行は著作者が認識していなくても悪質自費出版社の広告塔となり得ます。したがって、弁護士が悪質な自費(協力)出版商法をしていた出版社から本を出したという事実は公益性があります。

3.依頼人が検事を辞めて弁護士になった事実について
 依頼人が検事を辞めて弁護士になった事実は、依頼人が運営する植田労務管理事務所のホームページ http://ueda-consul.jp/profile.html
 で公表されており、名誉毀損には該当しません。

4.貴社から示された「懲戒処分については事実ですが、改めて公にされたり、掲載され続ける必要はない」という論拠の法的根拠について
A判例①平成25年9月6日東京高裁の判決 記事の転載者が名誉棄損にあたるかが争われた裁判で、オリジナルの記事(中傷記事)を転載した者に対しても名誉棄損を肯定した事案について。
 この事案は中傷による名誉毀損です。リンク元の「弁護士自治を考える会」の記事は中傷記事ではありません。また、今回の削除要請にあたり依頼人が「侵害情報の通知書 兼 送信防止措置に関する照会書」に記載しているのは中傷による名誉毀損ではなく、事実の記載を理由とした名誉毀損です。したがって、発信人の事例と同一に論じられる事案ではありません。

B判例②平成6年2月8日最高裁判決 ノンフィクション小説の中で過去の犯罪事実が明らかにされたとして権利侵害と認められた事案について。
 この事案については、もはや知る人もいなくなっていた犯罪事実が当該著作物で再び知れ渡ったというものですから、現在でも複数のサイトで公開されている発信人の事例とは全く異なります。

C「懲戒処分は行政処分であって刑事処分のような犯罪に対する刑罰ではないことや、懲戒処分がされたのは2011年12月のことで、その内容である暴力行為に至っては2008年のことであり、また業務停止期間は1か月で、それらから数年を経ており、現在弁護士をしていることがおかしいことではないことも考えれば、今なお掲載し続けることに公共利害性は乏しく、権利侵害にあたる可能性は十分にあると考えられます」との見解について。
 弁護士の懲戒処分による業務停止は短期間であってもその期間は顧客との契約ができなくなりますし、顧問契約や法テラスは3年間の契約解除になりますので、弁護士業の存続にも影響しかねない重い処分です。また、弁護士が信頼関係のもとに依頼人と契約し法律の専門家として職務を遂行する立場であることからも、過去の非行事実の公表は公益性があり、一般人の犯罪の事例と同列に扱うことはできません。
 なお、「現在弁護士をしていることがおかしいことではないことも考えれば」との文面から、貴社は依頼人が現在も弁護士業務を継続しているとの認識と読みとれますが、依頼人が運営する植田労務管理事務所のホームページ http://ueda-consul.jp/profile.html
 には、平成24年(2011年)5月に弁護士業務を引退したと記されています。現在も弁護士登録されているのは事実ですが、弁護士としての業務は行っていないことを自ら明らかにしています。懲戒処分を受けて半年足らずで引退していますが、引退は懲戒処分に起因している可能性が高いと推察されます。

5.「あずかり知らぬ情報を記載」との記述について
 「侵害情報の表示」の「掲載されている情報」の欄に「あずかり知らぬ情報を記載」と書かれております。しかし、懲戒処分の事実が依頼人にとって「あずかり知らぬ情報」ではないことは言うまでもありません。また文芸社から本を出版した事実および検事を辞めた事実についても「一般社団法人 環アジア地域戦没者慰霊協会」の植田弁護士のプロフィールのページ http://www011.upp.so-net.ne.jp/senbotsu-irei/goaisatsu-ueda-c.htm で公表されており、「あずかり知らぬ情報」ではありません。
 したがって、「あずかり知らぬ情報」など存在せず、照会書の記述は事実ではないことを指摘させていただきます。

 以上の理由により、不当な削除要請と考えています。ジェイ・ライン株式会社が、賢明な判断をされることを望みます。

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 なお、この件に関しては、クンちゃんも記事にして紹介してくださっている。

植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古い過去記事削除を要求!! 詳細は追記 

植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古い過去記事削除を要求!! その2 

植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古い過去記事削除を要求!! その3 

植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古い過去記事削除を要求!! その4

2016年12月 1日 (木)

怒りが止まらない

 怒ったところで、不平不満を言ったところで何も解決しないのは百も承知だ。でも、やはりこのところずっと怒りの気持ちが収まらない。もちろん安倍政権の暴政に、だ。

 秘密保護法や安保法制の強行採決で安倍政権が何をしようとしているのかは一目瞭然だ。公文書の情報開示をしても黒塗りだらけ。そして、つい先日は南スーダンでの自衛隊の駆けつけ警護で平和憲法をないがしろにした。権力に都合の悪いことは国民に知らせず、戦争をする国づくりに血道を上げている。そして事態は安倍首相の思うように進んでいる。

 マイナンバーカードの導入は国家権力が国民を監視し、管理することにある。国民がマイナンバーカードを持つかどうかは自由だとしていたのに、一年そこそこで健康保険証と兼用にして強制的に持たせようとか、図書館の利用カードとして使えるようにしようと画策している。個人の資産や思想まで国が監視するというのがマイナンバー制度。ゆくゆくは徴兵に利用しようと考えているのかもしれない。

 今や、労働者の4割が非正規雇用となり、子どもの6人に1人が貧困だというのだから、ただごとではない。こうしたことを改善するどころか、さらに残業代ゼロ法案やら年金カット法案という国民の不利になる法案ばかりを強行に推し進める。そして今度は医療費の負担増。年金だけでは生活が苦しい高齢者が大勢いるというのに、支給額が減らされた上に医療費が増えたらどんなことになるのかは想像に難くない。

 非正規雇用でカツカツの生活を強いられている若者は結婚どころではないし、厚生年金に加入できない人も多い。一方で国民年金の保険料は増え続けてきた。国民年金の未納率は4割を超えるという。今の若い人たちが高齢者になったときには年金をもらえない人が続出するだろうけれど、生活保護等で十分な対応がなされるとは思えない。こんな状態なのに、国民から集めた年金をアベノミクスのために株に投資して大損をしているとのだから目も当てられない。明らかに国の失策であるにも関わらず、すべて国民に背負わせるというのだから、どれほど国民を馬鹿にしているのかと怒りがこみ上げてくる。

 正社員であっても残業やパワハラが常態化し、過労死や自殺が後を絶たない。大企業は内部留保を溜めこむ一方で労基法違反が蔓延し、働くことが命がけになってきている。どうみても異常だ。

 福祉政策も改悪の一方で、特養は申し込んでも何年も待たされる。親の介護のために仕事を辞めざるを得ず、貧困や鬱に陥る人もいる。共働きであっても保育園に子どもを預けることすらままならない。

 「いじめ」があっても学校が積極的に解決に取り組むことをほとんどせず、発覚したら学校や教育委員会は責任逃ればかり。だから子ども達は自分が標的にされないよう空気を読み、波風を立てないことに必死になる。授業は相変わらず詰め込み教育で、自ら考える力をつけさせようとはしない。自民党政権はこうして「抗わない人間」「考えない人間」をつくりだしてきた。日本人はただでさえ協調性を重視する傾向が強いから、教育を利用して主体性のない人間をつくるのはたやすいに違いない。

 今年は熊本に続いて鳥取で大地震があり、つい先日も福島沖で大きな地震があった。火山活動も活発化している。日本は再び大地震や火山噴火に襲われることは間違いないのに、原発再稼働に躍起になっている。さんざん原発の安全神話を吹聴しておきながら、ひとたび福島のような大事故が起きれば、その処理費用や賠償費用は国民に押しつける。詐欺師同然だ。

 公約など全く守らず、数の論理で庶民を苦しめる悪法をどんどん成立させている。こうして庶民にばかり負担を押しつけながら、オリンピックや海外へのばら撒き、米国への思いやり予算などには湯水のごとくお金を使う。これのどこが先進国なのか。

 もはや自分たちの生存が脅かされている状態なのに、日本人は驚くほどおとなしい。なぜ黙っているのか、なぜ選挙にも行かず無関心でいられる人がそれなりにいるのか、私は不思議でならない。

 世論調査によると内閣支持率が60パーセントになったそうだ。安倍首相とトランプ氏との会談が支持率上昇につながったのだろう。私はテレビを見ていないが、どうやらテレビではあの会談で安倍首相をかなり持ちあげていたらしい。トランプ氏にとっては、どこまでも米国追従の安倍首相の訪問は「カモがネギをしょってきた」としか見ていないだろうに、マスコミを通すと逆の評価になるらしい。危機感のない人は簡単にマスコミに操られてしまう。

 日本人は意思表示をせず行動力がないのかといえば、必ずしもそうではない。政治とは関係のないこと、たとえばアイドルグループSMAPの存続を求める署名活動では、1カ月ちょっとで37万筆が集まったという。よさこいソーランのようなお祭り騒ぎは大好きな人も多い。しかし、こと政治に係ることになると途端に白けてしまう。要は、自分が楽しいことに対しては関わるが、自分が不利になるかもしれないような面倒なことには関わりたくないのだ。政治や社会問題に対しては主体性が著しく欠けている。

 もうずいぶん前から、ひたすら米国の顔色をうかがい従うだけの日本政府に心底嫌気がさしていたが、3.11の後にはそれが明瞭な怒りや危機感になりずっと気持ちが晴れない。自民党は、表現の自由をも制約したいという意向だ。今はこうやって書きたいことを書けるが、それができなくなる日もそう遠い将来のことではないのかもしれない。

 今ほど「抗う」「変える」という決意が必要なときはないだろう。しかし、日本人は極めて従順で変化を嫌う国民のように見える。「やっぱり政権を任せられるのは自民党しかない」という人がそうだ。3年間の民主党政権に絶望したという人は多い。しかし、国の無策を棚に上げ、そのツケをすべて国民に押しつける自民党政権がより良いとでも思っているのだろうか? 結局のところ、現政権に不満を抱きながらもあの政党もダメ、この政党もダメと悪いところばかりあげつらうことで、反逆や変化を避けているのではないか?

 辺見庸氏が2002年刊の「永遠の不服従のために」のあとがきにこんなことを書いている。

人間(とその意識)の集団化、服従、沈黙、傍観、無関心(その集積と連なり)こそが、人間個体がときに発現する個体の残虐性より、言葉の心の意味で数十万倍も非人間的であることは、過去のいくつもの戦争と大量殺戮が証明している。暗愚に満ちたこの時代の流れに唯々諾々と従うのは、おそらく、非人間的な組織犯罪に等しいのだ。戦争の時代には大いに反逆するにしくはない。その行動がときに穏当を欠くのもやむをえないだろう。必要ならば、物理的にも国家に抵抗すべきである。たがしかし、もしそうした勇気がなければ、次善の策として、日常的な服従のプロセスから離脱することだ。つまり、ああでもないこうでもないと異議や愚痴を並べて、いつまでものらりくらりと服従を拒むことである。弱虫は弱虫なりに、小心者は小心者なりに、根源の問いをぶつぶつと発し、権力の指示にだらだらとどこまでも従わないこと。激越な反逆だけではなく、いわば「だらしのない抵抗」の方法だってあるはずではないか。

 この本が書かれて十数年が経過した今、更に事態は悪化した。日本はもう平時ではなく、戦争へと片足を踏み出している。辺見氏の言う「異議や愚痴を並べて、いつまでものらりくらりと服従を拒む」というだらしのない抵抗すらしなかった結果、今では暴政のなすがままだ。

 政治に無関心な人たち、あるいはマスコミに踊らされてしまう人たちが、日本の危機的状況を察知して本気で抗わない限り、この国はどこまでも堕ちていくのだろう。そして騙されたと気づいたときは、いくらあがいてもどうにもならない状況になっている。こんな国にしてしまった責任は今の私たち大人にあるのだけれど、そう思うとあまりに切なく虚しく、やるせない。

 それでも私は口を塞がれるまで言いたいことを言い、暴政を批判しようと思う。

2016年11月14日 (月)

トランプの実像と恐怖

 アメリカの次期大統領がドナルド・トランプに決まって一週間が経とうとしている。選挙前までは、平然と差別発言を繰り返し明らかに品のないトランプを選択する人がどれほどいるのだろうかと思っていたが、蓋を開けてみればまさかの当選。安倍首相に心底嫌気がさしている中で、トランプの当選報道を聞いて否応なしに襲ってきたのは不気味な不安であり恐怖だ。

 ネットではトランプ大統領誕生にさまざまな意見がある。TPPはとん挫しアメリカ追従から脱却するチャンスで日本には追い風という前向きな意見もあれば、何も変わらないだろうという意見もある。しかし、私にはどうしてもそんな前向きな捉え方ができないでいた。こんなことを考えたってしょうがないと思いつつ・・・。

 もとよりヒラリー・クリントンが大統領としてふさわしいとは思っていない。しかし、クリントンであったならこれほどの嫌な感触は持たなかっただろう。いったいこの得体の知れない不安や恐怖は何に起因するのか? トランプの強烈な差別発言だけとは言い難い何かをずっと感じていた。

 そんなときにツイッターを通じて目にしたのが以下の記事。1987年に出版された「トランプ自伝」を執筆したゴーストライターによる良心の告白だ。なんとこの本はベストセラーになってトランプの名声を高めたという。しかし、トランプ自伝を書くためにトランプと行動を共にして彼のことを知りつくす著者のシュウォルツは、大統領選の前に本では隠していたトランプの実像について告白したのだ。

 トランプのゴーストライター、良心の告白(WIRED)

 長い記事だが、これを読んで私がトランプに対して感じた嫌悪感の源が何であったのかが、霧が晴れるように理解できた。この記事からトランプの性格を箇条書きにしてみると以下のようになる。

・自己顕示欲が強く、有名になることにとりつかれ、自分を大物に見せようとする。
・トランプがとる態度は、相手を罵倒するかおだてるかの二つしかない。
・金儲けのためにはどんな冷酷な手段もいとわない。
・集中力がない。
・読書に関心がなく、情報源は主にテレビ。
・計算づくで人を操る。
・計算づくで嘘をつき、メディア操作もする。
・人を騙すことに何の良心の呵責も感じない。
・金がすべてだと考えている。
・損得勘定でしか物事を考えず、自分の利益になるかどうかしか眼中にない。

 この記事から浮かびあがってくるのは、肥大した自己顕示欲をもつナルシストであり、自分の利益のために他者を支配・操作する独裁者だ。しかも、良心のかけらもないというのだから、サイコパスといっていいだろう。世の中にはこのような人物は少数ながら一定程度はいるし、単に実業家でいるだけなら無視することもできる。しかし、アメリカという超大国のリーダーということを考えるならもっとも恐るべき資質ではないか。

 資産家で貧困を知らず金のことしか頭にないトランプが、格差社会であえいでいる庶民の声に真摯に耳を傾けて救済するとはとても思えない。もしそのように見える言動をとっていたとしたなら、そこには「自分の利益」を考えての目的があるのだろう。トランプに投票した人たちが裏切られたと知る日はそう遠くないように思えてくる。

 トランプが大統領選に立候補した最大の理由が「注目されたい」という自己顕示欲にあるのなら、選挙演説で言っていたことは当選するために(国民を騙すために)彼が考えた作り話かもしれない。あの具体性のない思いつきのような主張は、そう考えると辻褄があう。現に、トランプは選挙戦のときの主張を軟化させはじめている。ただしあの醜悪な差別発言や罵倒は、彼の本心といえるものだろう。まともな人間は人を操作するために差別発言や罵倒を利用したりはしない。

 シュウォルツが言うとおり、人を騙すことに良心の呵責を感じない人であれば、政治家としてうまくいかずに国民の怒りや反発を招いたとき、あるいは世界の国々から非難されたり孤立したとき、いったいどんな行動をとるのだろう? 想像を絶するような大金が動く取引を、サーカスの芸人のように次から次への積み重ね「生きたブラックホールだよ」とシュウォルツに言わせた人物である。考えれば考えるほど恐ろしい。

 改めて思うのだが、トランプのこれらの性格の数々は、平然と嘘をついて国民を騙し、次々と強行採決をして日本を軍事国家にしたいと切望している安倍首相とほぼ重なるのではなかろうか。その安倍首相が内心もっとも怖れているのはトランプのように思える。トランプが自分の写し鏡であるなら、状況次第で日本は簡単にアメリカから見放される。安倍首相の拠り所がなくなるのである。拠り所を失った安倍暴走政権は自衛隊の軍隊化に必死になり核武装すら厭わないかもしれない。

 そして何よりも恐ろしいのは、トランプのような人物が核のボタンの権限を握ってしまったということだ。トランプが万一他国に対して敵対意識をむき出しにしたなら、何をするのか想像がつかない。

 トランプに関してはハワイ大学でアメリカの研究をしている吉原真里さんによる以下の記事が興味深い。吉原さんは、「選挙翌日のホノルルの様子は、2011.3.11の東日本大震災の翌日の東京と少し似ていました」と言う。それほどまでにショックなできごとだったようだ。

ブログ再開のご挨拶(Dot Com Lovers)

 トランプが当選したあと、全米各地で反トランプデモが繰り広げられた。民主的な選挙で決まったことに関して、なぜアメリカ人はこんな行動を起こすのだろうかといささかいぶかしく思ったのだが、彼らこそトランプに恐怖感や危機感を抱き、声を出さずにいられないのだと気づいた。恐らくあの選挙結果は奈落の底に落とされたような不安を抱かせるものだったのだろう。

 私がトランプにずっと抱いていた嫌悪感は、単に差別主義者とか政治経験がないことからくる不安だけではない。彼の言動からにじみ出る人間性に係るものだ。もちろん多くの米国人もそれを感じているのだろう。

 とりあえず当面の間、トランプは周りの人たちに理解を示すような穏当な態度をとるだろう。もちろん計算づくで。しかし、彼の性格や実像はそう遠からぬうちに取りまきや国民の思い知るところになり、彼に従う人と敵対する人に分かれるだろう。そうなったとき、間違いなく権力闘争がはじまる。格差が拡大してぎすぎすした米国で、果たして穏やかに解決することができるのか・・・。

 自分の利益しか頭にない傲慢で支配的な人間が米国のリーダーになった時点で、世界は更なる危機に立たされたと思えてならない。もちろん、悲観的なことばかり言っていてもどうしようもないし、事実に向き合っていくしかないのだけれど。

2016年10月26日 (水)

労基法を守らせないとブラック企業はなくならない

 電通に入社し一年足らずで自殺に追い込まれた高橋まつりさんの労災認定は、大企業で平然と行われている長時間労働やパワハラを浮き彫りにした。

 こういう痛ましいニュースを聞くたびに、社員をこきつかって死にまで追いやる日本の経営者の歪んだ思考について考えざるをえない。そして、こんな企業が大企業としてもてはやされている現実に震撼とする。

 健康な生活があってこそ、人は能力を最大限に発揮できる。朝から晩まで社員を奴隷のごとくこき使い休日も与えないような会社は、社員を会社の利益のための道具としか思っていないのだろう。大事な働き手である社員の心身の健康を大切にしてこそ、企業としての業績もあげられるし誇りを持てるのだと思うが、日本の経営者にそういう考えの人がいったいどれほどいるのだろうか。

 そもそもこの国では労基法が完全に形骸化している。労基法では、原則として一週間40時間(労働時間は特例措置対象事業場では44時間)を超えて労働させてはならないと定めている。一週間に5日勤務の場合は一日8時間を超えて働かせてはならないということだ。このような労働が当たり前であり前提であるにも関わらず、定時に帰れる職場はいったいどれほどあるのだろう。

 事業者が労働者に残業や休日労働などの時間外労働をさせる場合は、労組(労組がない場合は労働者の過半数代表)と36(サブロク)協定を締結して労働基準監督署に届け出なければならず、その協定で定められた範囲内の残業しか認められない。ただし、36協定を結んでいても時間外労働には上限があり、一か月で45時間、一年では360時間となっている。

 高橋さんの遺族の弁護士が入退館記録を元に集計したところ、月130時間を超えることもあったという。上限の2~3倍の残業をしていたことになるから無茶苦茶だ。電通に関しては労基法の無視がまかり通っているだけではなく、パワハラもあったとされている。これでは心身の健康が損なわれないほうが不思議だ。

 電通がとんでもないブラック企業であることは間違いないが、この国にはこういう苛酷な労働を強いている似たり寄ったりのブラック企業が数えきれないくらいあるのだろう。

 それにしても労働者はなぜ自分の健康より仕事を優先して無理をしてまで自分を追い詰めてしまうのだろう。労基法を知らないのだろうか? 知っていても、抗議したら嫌がらせをされるだけとか、どうせ改善などされないと諦めているのだろうか?

 日本人はとかく同調意識が強く、同僚が残業をしているのに一人だけ定時に帰ることに罪悪感をもつ人が多いのではないかと思う。定時に退社する人に対し、悪口を言うような人がいるとしたら、それこそ心が歪んでいる。「法律で定められた当たり前の労働時間を守ると白い目で見られる」という矛盾した状況が蔓延しているように感じる。こうした労働者の同調行動は会社の違法行為やパワハラを許し、自分で自分の首を絞めることになりかねない。

 それに、「大企業の正社員の地位を手に入れたのだから、できるかぎり頑張るのは当たり前」、「正社員なら残業は当たり前」という感覚もあるように思う。退職をしたいと思っても、労働環境の良い企業に正社員として就職することは困難だと諦めてしまう人もいるかもしれない。そういう理由はたしかに理解できるのだが、労働者がこういう意識で無理をし続ける限り過労死はなくならないし、ブラック企業が改善することも見込めない。

 長時間労働で疲労困憊になったなら、「こんな労働環境は絶対におかしい」という自分の正直な気持ちに向き合って転職を決意したり、労基法違反で会社を告発する勇気を持ってほしいと思わずにいられない。同調意識、同調行動を労組の活動で発揮すれば、ずいぶん状況が変わってくるのではないか。平然と違法行為をして社員を奴隷のごとく使う会社の責任が重大なのは言うまでもないが、一方で自分の身を自分で守るべく行動するのも自立した大人の責任ではないかと思う。

2016年10月25日 (火)

アドラーのトラウマ否定論について思うこと

 アドラー心理学の「トラウマを否定する」という考え方について、納得できないという人は多いと思う。なぜなら、トラウマ(心的外傷)とかPTSD(心的外傷後ストレス障害)は実際に存在するし、それが当事者にとっては生活上の大きな支障になっていると認識されているからだろう。

 しかし、私はアドラーの主張は基本的に間違っていないと思う。岸見一郎さんはアドラーのトラウマ否定論について、「幸福の心理 幸福の哲学」(唯学書房)で以下のように説明している。

 主人の側について歩くことを訓練された犬がある日、車にはねられた。この犬は幸い一命をとりとめた。その後、主人との散歩を再開したが、事故にあった「この場所」が怖い、と、その場所に行くと足がすくみ、一歩も前に進めなくなった。そしてその場所には近づかないようになった(Adler, Der Sinn des Lebens, S29)。
 「事故にあったのは、場所のせいであって、自分の不注意、経験のなさではない」と結論付けた犬は、この考えに固執し危険はこの場所で「いつも」この犬を脅かした。
 アドラーが比喩で語るこのケースは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のケースであると見ることができるだろう。神経症の人もこの犬と同じである、とアドラーはいう。面目を失いたくはないがために、ある出来事を自分が人生の課題に直面できないことの理由にするのである。
(27ページ)

 私はこの部分を読んで、自分が犬に咬まれたときのことを思い出した。あれは小学校高学年の時だったと思う。道端のフェンスに犬が繋がれていた。動物が嫌いではなかった私は犬に近づいて頭を撫でようとしたのだが、犬はいきなり私にとびかかって腕に咬みついた。私はびっくりしたと同時に「しまった!」と思ったが、後の祭りだった。腕には犬の歯形がしっかりとつき血がにじんだ。ただし、犬も本気で咬みついた訳ではなかったようで、大事に至るような怪我ではなかった。

 犬が嫌いではないがゆえに、咬みつかれるとは考えもせず不用意に近寄ったことが不幸を招いた。その後しばらくの間、私は大きな犬を見たり犬に吠えられるたびに恐怖に襲われた。アドラーの比喩にある交通事故にあった犬と同じであり、いわゆるPTSDといえるものだろう。これは、恐らく咬まれたときの恐怖が「犬=恐怖」という記憶となって脳にインプットされてしまったのだと思う。しかし、いくら犬が吠えたてたとしても、繋がれているなら近寄らなければ咬まれないし、人に咬みつく犬は多くはない。よく考えれば犬という動物はそれほど怖がる存在ではないのだ。それを自分で認識するようになるにつれ、犬への恐怖感は消えていった。

 「クモ恐怖症」も同じだ。クモ恐怖症の人はクモが大嫌いで、クモを見ただけで怖がりパニックになったりする。これもトラウマ、PTSDと言えるだろう。クモ恐怖症になってしまう人は、恐らくクモに咬まれて痛い思いをしたとか、テレビや映画などでタランチュラなどに襲われる場面を見たことが「クモ=恐怖」として脳にインプットされ、その思い込みから逃れられないのだろうと思う。

 しかし、私を含め、クモが大好きな人はたとえクモに咬まれて痛い思いをしてもクモ恐怖症になることはない。クモ愛好者の多くは素手でクモを採集するが、たまに咬まれてしまうことがある。そんなときは自分に問題があったと自覚しているから、クモが悪いとは考えない。また、クモの毒性についても知識があるから、たとえ咬まれても冷静に対処できる。大半のクモは怖い存在ではないと理解していれば、クモ恐怖症にはならない。

 ちなみにクモや昆虫を素手で触る私を見て育ったわが家の子どもたちは、クモも昆虫も怖がることはない。恐怖症になるか否かは、過去の経験や周囲の人の影響で「○○は怖い」という情報が脳に刻まれてしまい、それに強く支配されてしまうか否かというところにありそうだ。そして、恐怖に支配されるか否かは、当事者の意識が大きく関わっている。

 夫のモラハラ(モラルハラスメント)でPTSDになったという人のブログを読んだことがある。モラハラ夫は妻を自分の所有物のように支配しようとする。その女性は、モラハラ夫が単身赴任になり週末にのみ自宅に帰ってくる生活になってから、週末になると酷い体調不良で入院するようになった。そして、医師からPTSDだと告げられる。その後、彼女は離婚を決意して離婚のための行動にでるとPTSDがなくなったそうだ。この女性が夫のモラハラによってPTSDを発症したのは事実であっても、意識の転換によって発症を抑えることができたのだから、PTSD発症の鍵を握っているのはモラハラそのものというより女性の意識が大きい。ならば、モラハラがPTSD発症の直接の原因だと決めつけることにはならない。

 ところが、PTSDに苦しんでいる人はしばしば自分の不幸や辛さを、トラウマを生じさせたできごとのせい、あるいは加害者のせいだと考える。このような原因論に捉われてしまうと、意識の転換ができないのでずっとPTSDに支配されることになる。そして、自分の責任をトラウマに転嫁させてしまうことになりかねない。アドラーはこれを「見かけの因果律」と言った。

 モラハラ夫でPTSDになった女性の事例で言うなら、モラハラ男との結婚という選択をした責任は彼女にあるし、夫の支配になんら対策を講じずに結婚生活を続けた責任も彼女にある。その責任を自覚して自分の抱える「愛の課題」に向き合い離婚の決意をしたときにPTSDから解放されたといえるだろう。

 自分自身に何ら責任がない事件や事故、自然災害などによる恐怖もトラウマになる。しかし、そのトラウマは前述したように、脳が勝手に刻み込んだいわば「思い込みによる恐怖」といえるものだ。事件が起きた場所に行くとPTSDを発症するという場合があるが、そこに行ったらまた同じことが起こるというわけではない。脳に記憶された恐怖が場所と結びついているだけだ。

 事件や事故、自然災害に巻き込まれることは稀であるし、その教訓を今後に生かそうと自覚できれば、トラウマの恐怖に支配されることもなくなるだろう。PTSDになるかどうかは当事者の意識が大きく関わっているのに、過去の事件や事故のみに原因を求めて固執する人は、いつまでもPTSDから抜け出せなくなり、やがてトラウマやPTSDを、自分が人生の課題に取り組まないことの言い訳にするようになる。

 岸見さんの著書から再び引用したい。

 アドラーは、トラウマは必ずしもトラウマである必要はなく、いかなる経験もそれ自身では、成功の、あるいは、失敗の原因ではない、人は経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自分を決めている、と考えている(What Life Could Mean to You, P42)。
 トラウマによる不安を訴える人がもともと困難を回避する傾向があるということはありうる。働きたくないと常々思っていた人であれば、職場に行かないでいることを正当化する理由ができたと思うかもしれない。最初は事故にあった場所や事件に巻き込まれた場所に行った時、不安になったり心臓の鼓動が速くなったり頭痛がするという症状が出ただけだったのに、やがてその場所の近くを通りかかるだけでも症状が出るようになり、そうなると外へ一歩も出られなくなるのはすぐのことである。
(30ページ)

 アドラーはトラウマやPTSDの存在そのものを否定しているわけではない。過去の辛い経験について、当事者がトラウマだと思えばトラウマになってしまうが、そう考えなければトラウマにはならないと指摘しているのだ。トラウマになるか否か、PTSDを引き起こすか否かは過去の経験そのものより、当事者の考え方(経験にどのような意味づけをするか)によって決まる。だからこそ、同じ辛い経験(たとえば大津波で家族を失うなど)をしても、PTSDになる人とならない人がいるのだ。

 岸見一郎・古賀史健著「幸せになる勇気」で、アドラー心理学を説く哲人は以下のように語っている。

 彼らのような生き方を選ぶのは子どもだけではありません。多くの大人たちもまた、自分の弱さや不安、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論みます。心配させ、言動を拘束し、支配しようとするのです。  

非常に厳しい言い方であるし、PTSDに苦しんでいる人にとっては受け入れがたい考え方かもしれない。しかし、この指摘はやはり真実だと思う。過去の経験にどのような意味付けをするかでトラウマになるかならないかが決まるのなら、意味付け(考え方)を変えることでトラウマやPTSDから抜け出すことができる。それにも関わらず、「自分の不幸は不遇な環境やトラウマのせいであり、自分には一切責任がない」という思考にはまってしまうと「意味付けを変える」という思考ができず、いつまでもPTSDに捉われて前に進めない(人生の課題に取り組まない)ばかりか、無意識のうちに他者を支配することになりかねない。

 アドラーのトラウマ否定論については、以下も分かりやすい。

http://diamond.jp/articles/-/52954?page=4 
http://yuk2.net/man/110.html

 

2016年9月23日 (金)

断捨離

 断捨離を始めた。心の奥では溜まりに溜まったモノを何とかしなければ・・・とずっと思ってはいたのだけれど、モノが溜まれば溜まるほど断捨離をするのがおっくうになる。所詮、怠惰なのだ。

 なぜモノが溜まってしまうのか。いろいろ理由(言い訳)はある。私の親は何でもとっておくタイプだった。だから私もその感覚が自然と身についてしまったということが一つ。古くなったり壊れたりして使えなくなったものはともかくとして、自分の所有物を捨てるという感覚が子どもの頃からなかった。だから子どものときに友だちからもらった手紙まで箱に入れてしまってあったし、それが当たり前だと思っていた。しかし、よくよく考えてみたら、そんな人はいったいどれほどいるのだろう? ここまでくると笑うしかない。

 「もったいない」「とっておけばいつか使うこともあるだろう」というのもモノが捨てられない言い訳の一つだ。そうやってとっておいても、結局それを使うことはほとんどない。しかも、何年も経つと何をとっておいたのか、どこにしまったのかも忘れてしまう。そして押入れや棚の空間を占領し続ける。

 今回の断捨離も極めて消極的な理由から始まった。クモの標本置き場がなくなってしまったのだ。これを解決するには、棚の中を整理して要らないものを捨てるしかない。そうやって断捨離を始めてみたら、まあ呆れるほどゴミの山ができあがった。よくぞこんなに溜めこんだものだと思う。とくに多いのが自然や自然保護関係の会誌や資料。今関わっている団体の資料だけ残し、それ以外のほとんどをファイルから外して紐で縛る。

 40年以上も前の学生時代の資料も出てくる・・・。青春の思い出をばっさりと切り捨てるような感覚になるが、過去に拘り執着したところで感傷でしかない。もういい加減モノへの執着は止めねばならない。

 母が亡くなった2年前、実家の片づけをした時のことを思い出した。最終的には業者に処分をお願いしたのだけれど、その前に家の中のモノを一通り確認しなければならない。大量のゴミ袋を買って、個人情報の書かれたものは可燃ゴミに、雑誌や紙類は資源ゴミに・・・といった具合に、汗だくになって仕分けをしてゴミ出しをした。しかし、親のことを言ってはいられない。自分自身も大量のモノを溜めこんでいるではないか。これでは残された者はたまったものではない。

 モノが増えれば増えるほど、断捨離の決行にはエネルギーが要る。しかし、歳をとればとるほどエネルギーがなくなってくる。人生の終盤にさしかかったもののまだ多少なりともエネルギーが残っている今やらねば、大変なことになるに違いない。

 数日間の断捨離でかなりすっきりしてきた。でも、まだまだ捨てるべきものはいろいろある。本棚の本も減らそう。押し入れの中もチェックしなければならない。衣類の断捨離は一度やったが、もう一回やる必要がありそうだ。時間をみて、少しずつ進めていこう。せめて、残された家族に大きな迷惑をかけないようにしておかねば、と思う。

2016年8月20日 (土)

競争の弊害

 私はスポーツにはとんと興味がないし、オリンピックも関心がない。オリンピックがすでに商業主義になっていることもあるが、メダルや勝敗にばかりこだわることにどこかうんざりとした気持ちがある。テレビも見ていないからどうでもいいといえばそうなのだけれど、新聞は毎日、トップでオリンピックでの選手の活躍ばかり伝えているので、興味がなくても目にはいってくる。

 そんな中で飛び込んできたのが、レスリングで銀メダルをとった吉田沙保里選手が「金メダルが取れなくて、ごめんなさい」と泣いて謝る痛々しい姿。彼女の謝罪には、日本の代表として競技に臨む選手の重圧がそのまま現れている。彼女の謝罪に違和感を覚えた人は多いと思うが、こうした無言の圧力こそ無用なものだし、私がスポーツに関心を持てない理由のひとつだ。

 吉田選手は謝る必要などまったくない。彼女は日本のためにレスリングをやっているわけではないし、彼女を応援している人のためにやっているわけでもない。最善を尽くしたのだからそれでいいではないか。今回は金メダルをとれなかったが、次もダメだとは限らないのだし、自分の期待がかなわなかったからといって他人がとやかくいうことではない。王者といわれる実力の人でも、永遠に王者でいることはできないし、いつかは後進に道を譲らねばならない。第三者が勝手に期待をかけてしまうこと自体が間違いだと言わざるをえない。

 日本では、中学や高校の部活動においても勝敗にこだわる教育がなされている。とにかく勝つことが目的になっている感がある。これは何もスポーツに限らない。文化系の部活でも、コンクール、コンテストなどで競うことは少なくない。もちろん、試合において勝利を目指すことを否定はしないのだけれど、なぜそこまで競い、勝敗は順位に拘るのかと、私は不思議でならない。

 たとえば写真甲子園という高校生の写真選手権大会がある。新聞に掲載された入選写真を見ていつも思うのは、結局「選ばれること」を意識した写真になってしまうということだ。はじめから入選を意識するので、「撮りたい写真」ではなく審査員の目を意識した「入選するための写真」を撮ることに必死になる。写真のような芸術は、本来、評価されるために撮るものではないし競うものではないと思うのだけれど、なぜそこまで競いたいのか私には理解しがたい。

 勝敗にこだわり、子ども達を追いたてれば無言の圧力になってしまうし、ときに本来の目的や楽しさから外れ、他者の期待を満たすことが目的になりかねない。競争も圧力もマイナス効果しか生まないと思う。

2016年8月13日 (土)

受刑者の人権

 今日の北海道新聞の「各自核論」に、芹沢一也さんによる興味深い論考が掲載されていた。ノルウェーの受刑者の人権に関する裁判所の判決のことだ。以下に内容を要約して紹介したい。

 2011年にノルウェーで、オスロの政府庁舎を爆破して8人を死亡させた後、ウトヤ島で銃を乱射して69人を殺害するという連続テロ事件があった。犯人のアンネシュ・ブレイビク受刑者は最高刑の禁固21年の判決が言い渡され、厳重な警備下にある刑務所で他の受刑者とは隔離されて収監されていた。
 ブレイビクは生活用、学習用、トレーニング用の三つの部屋、テレビやテレビゲーム機(インターネットに繋がっていない)、料理や洗濯のできる設備を用意され、オスロ大学への通信制による入学も許可されていた。
 しかし、ブレイビクは隔離収監は人権侵害であるとして処遇の改善を求めて裁判を起こし、裁判所は「欧州人権条約第3条(拷問または非人道的な待遇・刑罰の禁止)に違反する「非人間的で屈辱的な処遇、処罰」であるとして、ブレイビクの訴えを一部認める判決を出した。
 ノルウェーでは、犯罪は特別の個人の問題ではなく社会の問題であり、刑務所は社会復帰のためのリハビリの場であるとの思想がある。たとえテロリストや殺人犯であっても、それは変わらない。
 「テロは許さない」というノルウェーの人たちは、暴力に対して怒りや憎しみをぶつけるのではなく、愛と思いやりで対峙する戦い方を選んだのである。したがってノルウェーの裁判所が示した見解は、ヨーロッパ・リベラルの甘さなどではなく、「テロには決して屈しない」という強靭な意思こそを示したものである。

 ノルウェーは犯罪者に非常に優しいということは以前に「ニルス・クリスティの言葉」ででも取り上げたが、ノルウェーと日本では刑罰の重さだけではなく、受刑者の待遇も天と地ほどの差がある。それは犯罪者であっても人間として尊重し、社会復帰を目指すという考え方が基本になっているからに他ならない。人は社会との関わりなしには生きていけないし、犯罪もまた犯罪者個人だけの問題では決してない。犯罪者とて私たちと同じ人間であり、非人間的に扱ったなら社会復帰の妨げにしかならないということなのだろう。犯罪者の社会復帰に必要なのは、彼らを罰によって苦しめることではなく、愛と優しさで人間らしさを取り戻すことなのだ。この考えに、私は深く共感する。

 芹沢さんの論考の中にウトヤ島の生存者の「暴力は暴力を、憎悪が憎悪を生みます。これは良い解決策につながりません。わたしたちは、わたしたちの価値観のための戦いを続けます」という言葉が出てくる。

 「暴力が暴力を生み、憎悪が憎悪を生む」ということは、私たちの日常生活の中にいくらでもある。自分が誰かから暴力を振るわれたことに対し、相手への報復に執念を燃やしたら、たちまち闘争が始まり収拾がつかなくなる。暴力に対して憎しみで対峙したなら必ず暴力の連鎖、憎しみの連鎖がはじまる。紛争はあくまでも話し合いや裁判などで解決して憎しみの連鎖を絶たねばならない。犯罪者に対しても人間らしい生活を提供し、愛と思いやりによって人間としての尊厳を取り戻すことこそ更生と社会復帰につながるし、憎しみの連鎖を絶つことにもつながるだろう。

 ところが、日本では凶悪な殺人事件が起きるたびに、犯人を極刑にしろとの大合唱が始まる。日本人の多くは、犯罪は犯罪者個人の責任でしかないと考え、暴力に対して徹底的に憎しみをぶつけ、犯罪者を厳しく処罰しなければならないと信じているようだ。そこには「自分は決して犯罪者にはならない」「犯罪者はすべて悪人」という驕りがあるのだろうし、どんな人でも「人は人として対等であるべき」という人権意識が欠落しているとしか思えない。

 暴力に対して憎しみだけをぶつける社会は、必然的に暴力的な社会になる。社会全体が殺伐とし、誰もが対等の人間であることが忘れ去られる。そこに平和や幸福はない。平和憲法を守りたいという人は多いのに、なぜこれほどにまで憎しみが蔓延してしまうのだろう。

 暴力のない平和な社会を望むのであれば、ノルウェーの人たちの理念こそ見習うべきではなかろうか。

2016年3月24日 (木)

莫大な赤字想定のもとに開業する北海道新幹線

 北海道新幹線の新青森~新函館北斗間が26日に開業の運びとなり、浮足立った報道がなされている。しかし、北海道新幹線開業で年間48億円の赤字が発生すると言われているのだから正直いって喜ぶというより「この先、どうするつもりなのか?」という懸念が浮かんでくる。

赤字込みの北海道新幹線 要因に特殊状況(乗りものニュース)

 JR北海道によると、北海道新幹線の場合は以下の三つの理由で他の新幹線よりコストが割高になるという。

①青函トンネルの維持費がかかる。
②青函トンネルで在来線貨物列車と新幹線の共用走行をするため、複雑な線路の維持管理コストが割高になる。
③新青森~新函館北斗間の約150キロメートルという短区間開業のため、コストが割高になる。

 この48億円という年間の赤字予想額は、東京~函館間の移動について鉄道のシェアが現在の約1割から約3割に増加するという前提での計算だ。もし、この通りに増加しなければ赤字額はもっと増えるだろう。

 では、予約率の方はどうなのだろう。JR北海道が3月10日に発表した予約率は「開業日から9日間の平均で約25%」とのこと。

北海道新幹線 予約率25% 初日以外余裕 春休みに期待(毎日新聞)

 記者会見でJR北海道の島田社長は「通常は運行日の1週間前から予約が増える」として「春休みもあり、たくさんの方の予約がその直前になされると思う」と発言している。

 しかし、開業の2日前の予約率はどうかというと、24%しかない。直前になれば予約が増えるなどというのはまったくの外れだった。

北海道新幹線 開業から9日間の予約率24%(陸奥新報)

 こんな調子だから、「鉄道のシェアが1割から3割に増加」などという見通しも甘いのではなかろうか。札幌から東京へは飛行機の便も多いし、格安航空会社ではなくても割引運賃などを利用すれば新幹線より安く行ける。新千歳空港に行く時間を見込んだとしても、新幹線よりずっと速い。開業後間もなくは物珍しさで新幹線を利用する人がある程度はいるとしても、果たしてどれだけ利用者が増えるのだろう?

 この先、札幌まで開通すれば利用者が増加することも考えられるが、札幌までつながるのは14年も先の2030年の予定。この間には赤字が相当深刻な状態になっているだろうから、料金が安くなるというのは考えにくい。札幌までつながったとしても東京~札幌間は5時間以上かかるだろうから、やはり時間は飛行機にはかなわない。しかも札幌から遠い地方に住む人は、新幹線が開通しても東京へは飛行機を利用するだろう。鉄道のほうが飛行機よりも天候に左右されないというメリットはあるが、やはり利用者増には料金がネックになりそうだ。

 JR北海道といえば数年前から頻繁に事故を起こしてニュースになってきたが、赤字体質のために古い車両を使いつづけてきたことも一因とされている。日高線では2015年1月8日に高波で線路の土砂が削り取られてしまい1年以上不通が続いているが、JR北海道は復旧費用を捻出できず、国への支援を求めている。

 JR北海道の鉄道部門の赤字に関しては以下の記事が詳しい。

 北海道新幹線開業でJR北海道がギリギリの経営状態になる?  (株価プレス)

 タダでさえ年間300~400億円という大変な赤字を出しているのに、さらに新幹線で赤字を抱え込むことになる。そのツケはどうなるのか? 運賃に上乗せさせれば利用者が負担することになるし、それではますます新幹線から足が遠のいてしまうのではなかろうか。

 日本全国を新幹線でつなぐという構想は1970年につくられた「全国新幹線鉄道整備法」に基づいているから、JR北海道は赤字を理由に建設を拒否することにはならない。しかし、この先の赤字を国が支援すれば国民の税金が使われることになる。

 新幹線が開通すれば在来線は当然不便になり地域住民に影響がでる。計画を変更して在来線をそのまま維持させるという選択肢もあったと思うのだが、構想や悲願ばかりが先走ったということはなかろうか? 多額の赤字を前提に開業する北海道新幹線に、国の無責任さを感じざるを得ない。

2016年3月19日 (土)

小学校の卒業式での袴姿に思う

 先日、新聞に小学校の卒業式の記事が掲載されていたのだが、女の子が振袖姿で卒業証書を受け取る写真を見て目が点になった。写真をよく見ると、ほかにも振袖を着ている子が何人もいる。いったいいつから小学生が和服で卒業式に出るようになったのかと驚いたのだが、インターネットで調べてみるとどうやら数年前から振袖に袴で卒業式に出る子どもが増えており、ブームになってきているらしい。

 これにはもちろん賛否両論がある。賛成派の人の意見は「振袖や袴は日本の伝統的な正装であり、卒業式という記念の場に相応しい」、「ほとんど着ることのないスーツなどを買うならレンタルの和服の方がいい」、「振袖は親などが持っているものを着せられるので、袴だけのレンタルなら安い」などなど。しかし、私には、子どもに華美な服装をさせたいという親の見栄や満足感が先にあり、自己正当化のために後づけでこのような言い訳をしているとしか思えない。

 そもそも卒業式というのはひとつの区切りの儀式であり、通過点に過ぎない。義務教育である小学校の卒業式で正装をしなければならない理由はないし、まして日本の伝統だからという理由で和服を着る必要もなければ、お金をかける必要もない。服装は卒業式の本来の目的とは関係がないし、とってつけたように伝統に拘るのは意味不明だ。私は普段着だってまったく構わないと思っている(ジャージなどの運動着やジーンズなどは避けるべきだとは思うが)し、むしろなぜ学校が「普段着で出席するように」と言わないのかが不思議だ。私が小学校の頃は、卒業式には中学校の制服を着ていった。それは着る機会がほとんどない服にお金をかけることがないようにという学校の配慮でもあったのだろう。しかし、そういった配慮はいったいどこへいってしまったのだろうか?

 もうだいぶ前のことになるが、自然保護の集会で旭川のあるホールに行ったときのこと、ピンクや水色などの華やかでヒラヒラとしたドレスを着た子ども達が大勢いて何があるのかと不思議に思ったのだが、どうやらピアノの発表会だったらしい。しかし、いつからピアノの発表会がドレスのファッションショーのようになってしまったのかと唖然とした。私も子どものころピアノを習っていたが、発表会はいわゆる「よそゆき」程度の服装だったし、中学生のときは制服だった。しかし、最近では、発表会は日頃の練習の成果のお披露目というより、きらびやかな衣装を着ることの方が楽しみになっているのではなかろうか? あのお姫様のような衣装を着たいがために楽器を習いたいという子もいるのではないかと思ってしまうほどだ。

 成人式でも大学の卒業式でもそうだが、昨今はかつてに比べてはるかに画一的になっている。私は成人式には出席しなかったが、私の頃は振袖のほかに洋服の人もそれなりにいたと思う。今はほぼ全員が振袖だし、和服の男性もいる。まるで振袖のファッションショーと化している。大学の卒業式も同じで、私が学生の頃は袴のほかに洋装の女性も結構いて、人それぞれだった。私は卒業式以外でも着る機会のあるワンピースにした。しかし、今は袴の女性が圧倒的ではなかろうか。

 成人式も卒業式も、あるいはお稽古ごとの発表会でも、本来の目的とかけ離れ、衣装の見せびらかしの場になってしまっているように思えてならない。親も親で、子どもを着飾らせることが愛情だと思ったり、皆と同じ衣装を用意してあげないと可哀そうという感覚なのかもしれない。しかし、そこには個性のかけらもない。そして、そんな見かけばかりに拘る風潮が小学生の卒業式にまで及んでしまったというのが昨今の袴ブームなのだろう。

 こうしたブームの陰には間違いなく貸衣装業者の営利主義がある。インターネットで「小学校 卒業式 袴」と入力するとおびただしい数の貸衣装業者のサイトが出てくる。貸衣装屋こそが親の見栄と同調意識を利用してこうしたブームをつくりあげている張本人ではなかろうか。だからこそ、成人式や卒業式、発表会がファッションショー化し、全国各地で小学生の袴が流行るまでに至ったのだろう。

 ハロウィンやバレンタインのチョコレートもそうだが、日本人とは何と安易に商業主義に利用されてしまう民族なのかと思う。

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