2018年5月24日 (木)

栗城史多さんの「否定の壁」について思うこと

 5月21日に登山家の栗城史多さんがエベレストで亡くなった。栗城さんのの訃報を知り、正直いって残念とかお気の毒という気持ちにはなれなかった。あえて率直な気持ちを表現するなら「虚しい」「痛ましい」だ。

 彼は6大陸の最高峰の登頂を果たし、最後に残っていたエベレストへの単独、無酸素での登頂に挑戦し続けていた。彼には多くのファンがいると同時に厳しい批判もあったようだ。私は彼のことを知ったときからずっと違和感を持ち続けていたのだが、その違和感は彼の登山の目的にある。

 栗城氏のオフィシャルサイトのトップページには「否定という壁への挑戦」というタイトルのもとに、挑戦をし続ける目的が書かれている。

 彼は大学3年のときに単独で北米最高峰のマッキンリーに向かおうとしたら、周りの人から否定されたという。それ以来、周囲の人からの「否定の壁」を乗り越えることが彼の信念となり、さらに登山の生中継を配信することで「否定の壁」につきあたっている人たちに自分の挑戦を見せ、「否定の壁」を共に乗り越えることに意義を見いだしていたのだと思う。つまり、彼にとって登山そのものは目的ではなく、「否定の壁」をなくすための手段だったのだろう。もちろん彼の行動は善からのものだし、自分の挑戦は他者への貢献にも繋がると考えていたのだと思う。

 私がもっともひっかかったのは「否定」と言う言葉と「否定の壁をなくす」という目的だ。さほど登山経験もない若者が一人でマッキンリーに登ると言い出したなら、一流の登山家はもとより一般の人も無謀だと諭すのはごく当たり前のことだ。マッキンリー登山に反対した人の中には辛辣な言い方をした人がいたかもしれないが、多くは常識に照らして意見を言ったのではなかろうか。彼の登山という行為や冒険心を否定したわけではないと思う。ところが彼はその意見を「自分の否定」として受け止めてしまった。

 また、何度もエベレストに挑戦しては敗退する彼には登山関係者からも批判の声が上がっていた。彼の体力や技術から考えると成功の見込みはほとんどないと。以下参照。

栗城史多という不思議(森山編集所)
栗城史多という不思議2 (森山編集所)

 しかし、彼は専門的知識のある人たちの意見も「自分を否定している」と捉えてしまったのではなかろうか。そして「否定の壁」を乗り越えることこそ自分の使命だと確信するようになってしまった。さらに自分を支持し応援してくれる人は仲間だが、批判する人は挑戦を阻む「壁」であり「敵」だと思ってしまったのではないか。

 彼がエベレスト登頂に固執し、無謀なルートに拘ったのは「批判」を「否定」と勘違いしたことが発端になっていると思えてならない。また、彼の執念の根底には、自分を否定した人たちを見返してやりたいという気持ちがあったのかもしれないとも思う。もし勘違いが無謀な挑戦を生み、そのために命を落としたのであれば、これほど虚しく痛ましいことはない。

 そんなこともあって、批判と非難(否定)について書いてみたい。

 アルフレッド・アドラーの言葉に以下のようなものがある。

自分と違う意見を述べる人は、あなたを批判したいのではない。違いは当然であり、だからこそ意味があるのだ。


 社会は自分と異なる様々な意見や価値観の人によって構成されている。たとえば思想などで自分と共通点の多い人であっても100%意見が同じということはほとんどない。十人十色というが、人はそれぞれ意見が違う。異なる意見や価値観の人も認めなければならないということを言っている。

 ところが、人によっては「意見が違う=批判された=非難(否定)された」と受け止め、自分が攻撃されたと勘違いをしてしまうことがある。意見の違いを否定とか攻撃と捉えてしまうと、単に意見が違うだけの人を「敵」とみなしてしまうことになる。

 ただし、このアドラーの言葉で注意しなければならないのは、「意見」や「批判」という言葉の使い方だ。厳密に言うなら、ここで使われている「意見」は「批判」を指し、「批判」は「非難」を指していると私は考えている。言いかえれば「批判をする人はあなたを非難したいのではない」ということだ。「批判」と「非難」を同じような意味合いで使っている人も多いと思うが、実は両者はまったく異なる。その理由を以下に説明したい。

 批判と非難の違いは一般的には以下のように定義されている(コトバンク)より。

【批判】
・物事に検討を加えて判定・評価すること
・人の言動、仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること
・哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること

【非難】
・人の欠点や過失などを取り上げて責めること

 この言葉の定義からすると、批判は論理的に評定をすることであり、非難は論理を欠いて他者を責め立てることだと言えるだろう。

 批判と非難の違いに関しては以下の記事がより踏み込んでいて興味深い。

中学生にもわかる「批判」と「非難」ってどうちがうのか?(高橋英樹 哲学ブログ絶対精神の純粋理性批判)

 著者の高松英樹氏による批判と非難の違いを箇条書きにすると以下のようになる。


【批判】
・考える性(さが)である理性が、理性自身の妥当性を考え判断すること。平たく言えば、「考える」こと自体を考えることによって、ある事柄がどう正しく、どう正しくないか、それをはっきりさせること。
・ただ知りたいがためだけに、ことを明白にしたいがために、言われていることの理屈の正しさを問うこと。
・批判の対象は、他人でも自分でもない。

【非難】
・「知りたいための否定」ではなく「否定のための否定」
・批判に対して腹を立てて「勝つための」議論をすること。
・「非難」の対象は自分以外の他人に向けられる。
・非難のために理屈の正しさを無視したり、ねじ曲げたり、理屈がない場合は非難ですらなく揶揄、誹謗、中傷になる。


 これらの定義から、「批判」とは理性的、論理的に妥当性を判断することだといえそうだ。理屈を示していても理性や論理性を欠き他者を責めたてるだけの発言は非難である。理性的、論理的に妥当性を判断する(つまりは批判する)ことは、私たちが過ちを犯さず主体的に生きていく上で非常に重要なことだ。批判的な見方ができるということは自己が確立されているということでもあると思う。

 自分の意見に対し他者から名指しで批判された場合でも、それに納得できなければ論理的に反論をすればいい。そうやって理性と論理でやりとりするのが議論だ。議論によって自分が間違っていると気づけば自分の意見を変えればいい。議論しても平行線ということはよくあるが、それはそれで考え方が違うことを互いに認め合うしかない。議論は決して勝ったとか負けたとかの勝負ではない。ところが自分の過ちを認めたくない人や相手を打ち負かさないと気が済まない人は、理性や論理を無視して非難することで勝とうと躍起になる。こういう人とは議論とか対話が成立しない。

 ある人と電話で話しをしていて、どうしても意見が一致しない状況になったことがある。そこで「見解の相違なのでこれ以上話しても仕方ないですね」と話しを切り上げようとしたら、「見解の相違」を頑として認めず自分の意見を押しつけて食い下がってきて驚いたことがある。この方は自分が勝たないと気が済まない性分なのだろうと思った。

 競争意識や敵対心の強い人、自分の非を認めない人、他人を支配したい人などは、論理的主張であっても自分とは意見が違うというだけで「非難された」「否定された」と受け止めてしまうのだろうと思う。

 このように批判と非難はまったくの別物である。そして批判は必要だが非難はすべきではないということになる。互いに非難し合ったなら、決して理解しあったり歩み寄ったりすることはできないし、人間関係は悪化する一方だ。

 日頃から非難をしないようにわきまえている人は、他人を罵倒したり揶揄したり見下すようなことはまずしない。そのような人同士での意見交換は、たとえ最終的に理解し合えなくても有意義だし喧嘩別れに終わるようなことはない。

 逆に、競争心や敵対心が強く自分が勝たねば気が済まない性格の人は、意見が違うだけで非難に走る。高松氏は、論点をそらしてはぐらかしたり、外からの情報を根拠にしたり、自己完結したただの「意見」で終わらせようとする場合は非難だとしている。

 競争心や敵対心というのは一度身についてしまうと変えることはとても困難だ。このような意識になってしまうのは競争社会だけではなく不平等な社会が大きく影響していると思っているが、人々の心からこれらをなくすことは難しそうだ。ただし、他者の非難ばかりしている人や仕返しをしなければ気が済まない人は、「復讐という不幸」に書いたように、穏やかで幸せな人生にはならない気がする。

 もし栗城氏が自分への批判を「否定」と捉えずアドバイスと受け止めていれば、彼の人生は全く違ったものになっていたのではないかと思えてならない。

2018年5月17日 (木)

不当な懲戒請求で弁護士らが提訴を表明

 いわゆるネトウヨと言われる人たちが弁護士に不当な懲戒請求をしたという件で、東京弁護士会の佐々木亮弁護士と北周士弁護士が記者会見を開いた。この記者会見についての記事が以下に掲載されている。

「懲戒請求者は90億人」の手紙も…大量請求受けた弁護士2人が提訴へ「非常に不当」(弁護士ドットコム)

 佐々木、北両弁護士は、960人の懲戒請求者を相手に慰謝料を求める訴訟を起こすとのこと。また、和解も受け入れている。

 このような応報に対しては大人げないなどという批判も出ているようだ。私は報復行為は支持しないしトラブルはできる限り話し合いで解決すべきだという考えだ。ネットでの言論でトラブルになった場合なども安易な名誉毀損裁判はできる限り避けて話し合いで解決するのがベストだと思っている。

 しかし、今回の大量懲戒請求者の提訴は報復だとは考えていない。大量の不当懲戒請求によって弁護士さんたちが被害を被ったというのは事実であり、それに対して責任をとってもらうというのは当然の行動だと思う。無法者に対する正当な対処だろう。

 ネトウヨたちの最大の問題は、責任感の欠如だ。彼らは平然と差別発言をし、安倍政権を批判する人たちにツイッターなどで粘着して罵声を浴びせかける。大多数は匿名だから責任をとる気もないのだろう。犯してしまった不法行為に対しては謝罪と賠償で責任をとるしかない。日頃自己責任論を声高に唱えながら「自分の責任をとる」などということは考えてもいない人たちには、この機会にしっかりと責任をとってもらうことも必要ではないかと思う。

 また澤藤弁護士による以下の意見もあるが、ほぼ同感だ。

安易な弁護士懲戒請求は、損害賠償請求の対象となり得る。(澤藤統一郎の憲法日記)

 弁護士への不当な懲戒請求に関してはすでに判例があり、慰謝料は30万から150万円となっている。以下参照。

弁護士に対する懲戒請求が不法行為になるか(河原崎法律事務所ホームページ)

 佐々木弁護士と北弁護士の場合、和解金は弁護士1人あたり5万円とのこと。同じく提訴を表明している嶋崎量弁護士も同様に5万円。上記の判例から考えても、この和解金は良心的な金額ではなかろうか。たとえ無職でお金がない人でもアルバイトをすれば容易に稼げる金額だ。

 また、佐々木弁護士と北弁護士は、不当な懲戒請求を煽ったブログの管理人の刑事責任を追及する方針であることも明らかにしている。このブログ主の責任が追及されるのは当然だと思うが、事実も確認しないで従ってしまう人がこれほど多いことに呆れてしまう。しかも、北弁護士によると請求者は比較的年齢が高い印象だという。ネトウヨといえば若者が多い印象があるが、そのそこの社会経験があるであろう「大の大人」がそれなりにいるというのは興味深い。

 同じく不当懲戒請求を受けた神原元弁護士も提訴を宣言しているが、神原弁護士は刑事事件にすることも検討しているようだ。

 訴状など無視すればいいと言っている人もいるようだが、反論しなければ請求額がそのまま確定する可能性が高い。お金がないなら賠償命令など従わなくてもいいという人もいるが、財産(給与)の差し押さえとか刑事告訴もあり得る。和解に応じるか弁護士に対処を相談するのが賢明だろう。

2018年5月 6日 (日)

復讐という不幸

 以下は5月4日にツイッターでつぶやいたツイート。

コメント欄で他者とのやりとりができるブログも含め、SNSをやるようになってから驚くほど復讐心が強くかつ執念深い人がいることを知った。もう2年以上も特定の人の悪口やデマを言いふらしている人がいる。相手を貶めることで自分の優位性を誇示したいのだろうけれど、哀れにしか見えない。

他人を罵り悪口を言い続けなければ気が済まない人は、第三者からは異様なクレーマーであり偏執病(パラノイア)にしか見えない。ところが本人はそれが善だと思っており、優越感に浸り粋がっているのだろう。だから自分の性格の問題であることすら認識できない。実にお気の毒なことだ。

https://twitter.com/onigumoobasan/status/992263471717744641

 このツイートについて、もう少し具体的に説明しておきたい。

 私がブログを始めたのは2007年の5月からだから、もう10年もブログを書いていることになる。ブログでは自然に関することなどのほか環境問題や社会問題にも言及してきたし、不可解に思うことに関しては批判も含め率直な意見を書いてきた。原発事故が起きた2011年からは情報収集のためにツイッターも始めた。しかし、インターネットで自分の意見を表明すれば、必ずといっていいくらい「言いがかり」をつけてくる人がいる。

 意見が異なるのなら「自分はこう考える」と反論すればいいだけなのに、論理的に説明をすることなく誹謗中傷したり個人情報を晒す人がいる。説明を求めたり反論したことを「攻撃」と称し、「自分は攻撃された被害者」だと主張して法的手段をちらつかせて恫喝する人もいる。もちろん、いくら待っても内容証明郵便や訴状が来ることはなく、黙らせるための脅しにすぎない。要は、批判的意見を書いたことに対する逆恨みだ。

 ある自費出版社に対して不可解な訴訟を起こし和解したにも関わらず、ブログで延々とその出版社の批判を書いている人もいる。その執念深さには呆れてしまうが、その人の目的はトラブルを解決することではなく出版社の落ち度を晒すことで優越感に浸ることなのだと考えれば納得がいく。公益目的の批判を通り越したモンスタークレーマーだ。

 ツイッターでも恨みから報復ツイートをしている人がいる。ツイッターで嫌がらせをされたり批判的なことを言われた人が、エアリプで(といっても誰のことを言っているのかだいたい分かってしまうのだが)悪口や揶揄、侮辱発言による仕返しを延々としているのに気づいて辟易とした。エアリプなら名誉毀損にならないと思っているのだろうけれど、他人の悪口を言って粋がっているのは本人だけで、第三者が見たら執拗なクレーマーでしかない。

 この10年間、ネットで「やられたからやり返す」という人を嫌というほど見てきた。そういう復讐心の強い人の中には驚くほど執念深い人も少なくない。世の中には憎しみから復讐をしないと気が済まない人が一定程度いることを実感した。

 誰もが言いがかりをつけられたり嘘を振りまかれたり誹謗中傷されたら不快になり腹を立てるものだし、私もそういう感情を抱くことはある。しかし、言いがかりをつけたり誹謗中傷をしたわけでもなく、批判的な意見や感想を書いただけなのに怒りを露わにして復讐する人がいるのには驚いた。私は批判されたら反論をすることはあるが、相手を憎むとか恨むということはないし、仕返しをしようとも思わない。そんなことをしたって自分と相手の間に横たわる問題は何一つ解決しないばかりか、よりいっそう険悪になるからだ。

 大人になっても仕返しをしなければ気が済まない人は、「憎しみはさらなる憎しみや苦しみしか生まず何の解決にもならない」ということを今までの人生で学んで来なかったのだろと思う。

 自分を傷つけた人、嫌いな人を痛めつければその時は恨みが晴らせたという満足感で気分がスッキリするのかもしれない。相手をけちょんけちょんにやっつけることができれば「自分こそ正しい」という優越感に浸ることができる。あるいは「自分は被害者」だと主張することで相手の加害性を強調でき、「相手は悪いやつだ」と印象づけることができる。でも、復讐による爽快な気分が長く続くことはないと思う。

 なぜなら、復讐というのは「自分がやられたくない」と思うことを相手に対して実行することだからだ。これはものすごくネガティブな感情であり行動だ。他人の個人情報を晒して嫌がらせをしていた人が、自分の個人情報を晒されて怒り狂っているという状況を何度か目撃したことがあるが、それが復讐の本質だ。

 しかも復讐には名誉毀損や侮辱、プライバシー侵害、脅迫など違法行為や不法行為がつきまとう。なぜなら真摯な議論をしたのでは相手を痛めつけることができないからだ。したがって相手の社会的評価を低下させるために違法行為や不法行為に走ることになる(事実の適示であっても相手の社会的評価を低下させれば名誉毀損になる)。ネガティブな感情を持ち続けたり違法行為や不法行為に手をそめたなら、穏やかで幸せな気持ちでいられるわけがない(もし復讐が快楽だという人がいるなら、それは良心が欠落したサイコパスだろう)。場合によっては、相手からの反撃に怯えることにもなりかねない。

 報復感情が強すぎると、被害妄想に陥ってしまうこともある。前述したように私は反論したり批判的意見を述べることはあっても恨みから復讐をすることはない。ところが復讐心に満ちた人は決して冷静な議論をしようとせず、反論や批判的意見を「攻撃」だとか「恨み」だと決めつけて「自分は被害者」だと主張する。こうなると被害妄想の域に達していて話し合いの余地がない。いわゆる偏執病(パラノイア)と言われる人たちは、そんな心理状態に陥ってしまった人ではないかと私は思っている。

 復讐をするということは、穏やかで幸せな気持ちを手放すこととイコールなのだと思う。復讐をされた人は当然のことながら不快になり相手を信頼しなくなるし、互いに復讐心が強ければ報復合戦という地獄になりかねない。復讐などしたところでいいことは何一つないが、偏執病の域に達してしまうとそこから抜け出すのは容易ではないのだろう。何しろ自分を傷つける相手を懲らしめるのは善だと思ってしまうのだから。

 そういう人に限って「復讐」という行為が自分の不幸を招いていることを理解できず、自分にまとわりつく不幸や息苦しさは相手のせいだと更なる勘違いをして攻撃を止めようとしない。復讐をしないと自分がやられっぱなしになるのではないかと不安になり、復讐を手放すことができなくなる。憎しみを手放せば楽になれるのにと思うけれど、第三者がそんなことを言っても虚栄心の強い人はまず聞く耳を持たない。復讐をする人は自分で自分を不幸にしているのに復讐を止められないのだから、哀れであり気の毒と言うしかない。

 ネットで意見を言う以上、嫌がらせや報復はつきものなのかもしれない。しかし、そんなことにいちいち腹を立てて報復するのは自分を不幸にすることでしかない。納得できない意見には論理的に反論し、嘘をふりまかれたら嘘であると指摘するのは正当な行為だと思うが、そのような正当な主張を超えて相手を貶める「復讐」という手段を選択したら最後、不幸のループにはまるだけだ。

 トラブルになったなら、対話しか平和的な解決はない。報復のために相手の粗探しなどを始めたなら地獄の始まりだ。ネガティブな気持ちにならないためにも、私は復讐心が強い人のツイッターやブログは基本的に見ないようにしているし、エゴサーチもしない。

 菅野完さんの件では被害者の女性の復讐心に関して批判的な記事を書いたが、それも上記のような理由からだ。報復行為が周囲の人まで巻き込んで不幸を拡大してしまった事例だ。

 最後に参考までにこちらのサイトを紹介しておきたい。

復讐したいと思ったら読んで!傷つけられた時のブッダの思考

2018年4月24日 (火)

ハラスメントと差別意識

 財務省の福田事務次官が女性記者に対してセクハラ発言をしたことが明らかになり、辞任に追い込まれた。本人はセクハラではないと開き直っているが、理解に苦しむ。日本では未だに男性による女性へのセクハラや性暴力が後を絶たないが、本当に恥ずかしい限りだ。

 セクハラやパワハラはハラスメント、すなわち嫌がらせだが、嫌がらせというのはそもそも他者を自分と対等の人間と見ておらず他者の人格や人権に対する配慮が欠けることに起因する。相手の人格や人権を無視して自分に従わせようとしたら、そこにハラスメントが生じる。そしてハラスメントの根底には差別意識がある。

 日本では今でも家事や育児、介護などは女性の仕事という風潮が強い。共働きであっても女性の方が圧倒的に家事や育児の負担が大きい。男女は対等であり平等であるという意識があればそういうことにはならないはずだが、平等意識を持っている人はどれくらいいるのだろう。

 専業主婦に対して「誰に食わせてもらっているんだ」などと平然と発言する夫などは、自分が妻の人格を無視しているなどとは思っていないのかもしれない。お金を稼いでいる自分の方が妻より上であるという意識があるからこそそういう言葉が自然に出てくるのだが、その傲慢な意識に気づけない感覚は恐ろしい。昨今は女性が外に働きにでて夫が専業主夫という家庭もたまにあるが、男尊女卑の感覚がしみついている人はそういう立場にでも置かれない限り真の男女平等や分業ということを理解できないのかもしれない。

 以前、ある著名な詩人が「化粧をしない女は女性ではない」という意味合いのことを書いていて驚いたことがある。化粧をして外見を良く見せるのが女性の本質だと言いたいのかもしれないが、そういう見方が性差別であることに気づいていないのだろう。以降、その詩人に関しては私は関心を失った。

 夫のことを「主人」と呼ぶ人も多いが、私は「主人」という言葉は使わない。「主人」は明らかに主従関係を表す言葉だからだ。妻のことを「嫁」と言ったり、結婚することを「嫁をもらう」などと表現するのも同じで、男性より女性が下という考えが根底にある。男尊女卑がそのまま残っている言葉であり、死後にしたほうがいいと思っている。昔はそれが当たり前だったのかもしれないが、今はそんな時代ではない。

 学歴や社会的地位、職業、容姿などを持ち出して評価したりすることも日常的にある。学歴も社会的地位も容姿も、その人の人間性や価値とは何の関わりもない。そんなことは誰にでも分かると思うのだが、実際には学歴や地位、容姿で他者を差別するような人はしばしば見かける。

 ネットでも至るところでハラスメントを見かける。意見が異なる人に自分の意見を伝えるのは悪いとは思わないし、事実誤認をしている人がいたら指摘するのもいいだろう。ところが、相手を呼び捨てにして「お前の主張は間違っている」とこき下ろしたり、アホだとかクズなどと小馬鹿にする人が何と多いことか。事実誤認を指摘するなら、事実について説明すればいいものを「そんなことも知らないのか」とばかりに相手を侮辱する人もいる。

 自分の気に入らない高齢者に対し、ジジイ、ババアなどと罵るのも言葉の暴力であり一種の差別だろう。不快なことがあるなら、不快な理由を説明して止めてほしいと伝えるのもいいだろうが、ネット上の見ず知らずの匿名者などに関わる必要はない。不快だからといって公の場で罵れば、醜い罵り合いになりかねない。

 「他者の人格を個人的にも集団的にも傷つけ、蔑み、社会的に排除し、侮蔑・抹殺する暴力性を持つ言葉」を差別用語というが、他者を蔑み傷つける発言は差別意識に基づいているといっても過言ではないと思う。

 そして、日常的に差別的な発言をしている人たちは、自分が差別をしているという意識はほとんどないのではないかと感じる。それだけ無意識に他者を差別している人が多いように私には思える。人は誰しも自分の考えは間違っていないと思っているものだ。しかし、それを他者に押しつけたあげく侮蔑するのは筋違いというものだろう。自分と異なる意見の者に対しては論理的に批判すれば事足りるわけで、侮蔑する必要など何もない。

 要は、差別をする人というのは「自分こそ正しい」「自分の方が上だ」という思い上がりがあるから、異なる意見の者を侮辱し、自分の主張を押しつけようとする。

 差別意識というのはそう簡単になくなるものではないのだろうけれど、差別意識が強ければ民主主義そのものが成り立たないと私は思う。

2018年4月11日 (水)

「君たちはどう生きるか」は人類にとっての永遠の課題

 昨年出版された漫画版の「君たちはどう生きるか」がかなり売れているという。私は漫画はあまり好まないし、こういう本は原作を読んでみるに限るという考えなので、遅ればせながら岩波文庫版を読んでみた。著者は東京大学の哲学科を卒業し、編集者、評論家、作家、翻訳家の肩書を持つ吉野源三郎氏(1899-1981)。「君たちはどう生きるか」は80年前の1937年に「日本小国民文庫」の中の一作品として書かれたものだ。

 この作品はコぺル君というニックネームの15歳の少年が主人公だ。中学校でのいじめ問題や友人関係で悩むコぺル君の日常生活と、コぺル君の相談相手である叔父さんがコぺル君に宛てて書いたノートによって構成されている。つまり、コぺル君の人間関係の悩みというストーリーを軸に、吉野さんのメッセージを「叔父さんのノート」という形で織り込んだ作品だ。

 本書で吉野さんが叔父さんに語らせている若者へのメッセージは、かいつまんで言うならおおよそ以下のようなことだ。

・差別をしてはいけないこと。
・人間は協力し合って生きていかねばならない存在であること。
・物ごとを俯瞰的に見ることの大切さ。
・主体性(自分で考え行動する)を持つこと。
・人類の発展のために学ぶこと。
・過ちを犯したときはそれを認め謝罪すること。

 これだけを読めば、当たり前のことを言っているにすぎないと言う人もいるかもしれない。しかし、この当たり前のことを実践できている人というのは、実のところそれほど多くはない。

 この本が書かれた1937年といえば、おぞましい日中戦争が始まった年だ。そして1941年には太平洋戦争が勃発した。国中が軍国主義に染まり、社会主義の運動は弾圧され、自由に物を言うこともできない息苦しい時代だ。1938年には国家総動員法が制定され、国民は強制的に戦争に駆り出されることになった。あの当時、日本人の多くはメディアに翻弄され軍国主義に大きな疑問も持たず時代に流されていたのではなかろうか。あるいは疑問に思っても口に出せず、国に従うしか術がない生活を強いられていたのだと思う。そんな状況にありながら、というよりそんな時代だからこそ次世代を担う若者主体性を持つことの大切さを伝えようとしたのが「日本少国民文庫」であり本書だろう。

 吉野さんは治安維持法で逮捕投獄され、執行猶予で釈放されたときにこの本を書いたという。身の危険を感じながらも、検閲で引っ掛からないように細心の注意を払って書いたに違いない。壮絶な時代の中にありながら、若い人たちへ向けた熱い想いが伝わってくる。

 本書が発行されてから80年経った今、再び脚光を浴びているのは単に漫画版で読みやすいとかブームというだけではなかろう。80年経っても、まだそのメッセージが新鮮だということに他ならないと思う。つまり、国民の主体性が完全に奪われ全体主義に染まった息のつまるようなあの時代から80年経った今もなお、私たちの多くが本書に示されたメッセージを実践できないがゆえに、「人はどう生きるべきか」という問いが繰り返されるのだ。

 当たり前と思えることがなかなか実践できない。それどころか近年はますます状況が悪くなっているかのように思える。ひとつにはこの当たり前のことを戦後の学校教育の現場で何ら教えてこなかったということがあるだろう。教えてこないというより、むしろ逆行する教育を行ってきたのではないか。つまり、自主性よりも従順であることを求め、リーダーとなりうる一握りのエリートの育成しか考えてこなかったのではないか。その他大勢はリーダーに従っていればいいのだと。

 受験に追い立てる競争教育は学ぶことの意味を置き去りにし、周りの人たちを「敵」にする。競争に乗れない子どもは落ちこぼれのレッテルを貼られ疎外される。近年の行き過ぎた資本主義は格差を生み、格差は憎しみを生む。学校は子ども達が協力しあう場ではなくなり、差別やいじめが後を絶たない。

 他国のことはよく分からないが、日本の若者は恐ろしく政治に無関心だ。戦後生まれの大人たちは、子ども達に政治に関心を持つことの大切さを教えず、主体性はおろか「周り」に合わせていればトラブルを避けられると教えてきた。私が若い頃は、政治の話しをする友人など誰もいなかった。

 こんな具合だから、自分の身を守るために自己主張をせず波風を立てないことがよしとされ、事なかれ主義が蔓延する。事なかれ主義で自分の責任を回避する習慣が身についているから責任感が欠如し、過ちを犯しても認めようとしない。吉野さんのメッセージと逆行する教育がなされてきたとしか思えない。

 太平洋戦争を経験した世代の人々が高齢になり戦争を知らない世代ばかりになってきた昨今、戦争というものがどれほど愚かで惨いかを想像できない人達が増えている。子どもだけではなく多くの大人が政治に無関心であり、関心があるとしてもせいぜい「景気」が良くなり自分の生活が安定するかどうかくらいしか頭にないからではなかろうか。だからアベノミクスにも簡単に騙されてしまう。

 そこには人の無知があり、思い上がりがあり、限りない私欲がある。「君たちはどう生きるか」で吉野さんが発信しているメッセージはシンプルで難解なことではない。しかし、怠惰で強欲な人類にとって、永遠の課題なのかもしれない。

2018年3月27日 (火)

疑惑が深まっただけの佐川氏証人喚問

 今日は森友学園問題で決算文書改ざんを指示したとされる佐川宜寿前国税庁長官の証人喚問だった。この喚問でのやりとりについてはニュースにもなっているので具体的に言及するつもりはないが、印象を記しておきたい。

 佐川氏がこの証人喚問に対してどう出るかは多くの人が注目していたし、真実を話すことで自分だけに責任を押し付けるような政権側のやり方に反撃するのではないかという期待を抱いていた人も多かったのではないかと思う。

 佐川氏は証人喚問の冒頭から「刑事訴追の恐れがあるので答弁を差し控えさせていただく」という予想された答弁拒否の発言をした。この瞬間に、佐川氏は官邸を守る決断をした、すなわち事実を包み隠さず話すという選択はしなかったと直感した。

 そして案の定、決算文書改ざんに関わる質問に関しては答弁拒否を繰り返した。そればかりではない。刑事訴追とは何ら関係のない「昨年2月の国会答弁は改ざん前の文書を基にしたか」「昭恵夫人の名前が決算文書にあったのを見たときにどう思ったのか」といった質問にまで「刑事訴追・・・」を理由にシラを切った。

 都合が悪いと思える質問に対しては答弁拒否あるいははぐらかしの答弁をする。しかし、官房や官邸などからの指示や圧力、あるいは関与などはあったのかという質問に関しては明確に否定。昭恵夫人の影響についても否定。不自然極まりない答弁を貫いた。

 想定される質問を網羅しどのような答弁をするのかあるいは答弁拒否するのか、弁護士と綿密な打ち合わせをして頭に叩き込んだ、そんなことを連想させる答弁だった。しかし、人というのは心の動揺まで隠せるものではない。早口になって言い訳をする姿に、「正直に答えている」という印象を持った人はまずいないだろう。疑惑を追及されると関係のないことを長々としゃべり続けて論点をそらす安倍首相の答弁に通じるものがある。

 昨年行われた籠池氏の証人喚問では、部分的に「刑事訴追の恐れ」を理由にした証言拒否はあったものの全体として不自然さはなく、矛盾を感じるようなこともなかった。それに比べ、今日の佐川氏の証人喚問はあきらかに不自然であり、無理をして誤魔化しているのは明白だった。疑惑が解明されるどころか、疑惑が深まるばかりの答弁だ。結局、事実をそのまま話さないという選択をしたなら、こうならざるを得ない。彼は恐らく良心の呵責を覚えながらも官邸を守る選択をしたのであり、それは間違いなく自分の目先の利益を守る選択だったのだろう。

 官邸を守る答弁をしたなら見返りがあるのに対し、官邸を裏切るような答弁をしたならこのあとさまざまな制裁が待ち構えている。佐川氏はそのことを一番よく分かっているに違いない。官邸に有利な発言を貫けば、偽証罪に問われることはないと踏んでいるのだろう。

 人は窮地に陥ったときに自分の身を守ろうとする。ただし、良心に従って真実を話すことが自分の身を守ることだと考える人と、目前の損得を秤にかけて得をとることが身を守ることだと考える人がいる。佐川氏は後者を選んだということだろう。

 佐川氏が国会において虚偽の答弁をし、決算文書の改ざんという指示をしたことはほぼ間違いない。このときも損得を秤にかけて身を守るという選択をした。そうした思考をする人が、証人喚問に場において考えを180度改め、良心に従って事実を話すという大転換をすることは並大抵のことではない。圧力をはねのけ証人喚問で包み隠さず事実を話せるような勇気のある人は、そもそも虚偽答弁や改ざん指示などといった国会や国民を裏切る行為はできない気がする。

 しかし、本当にその選択で良かったのだろうか。恐らく、今日の佐川氏の答弁に基づいて安倍政権は「官邸も昭恵夫人も関与していないことが明らかになった」としてこれ以上の証人喚問を拒否するに違いない。しかし、それでこの問題が収まるとはとても思えない。なぜなら、今日の答弁からは「なぜ決算文書の改ざんをしたのか」という核心部分は一切分からなかったからだ。これで野党の追及が収まるわけがない。佐川氏の答弁に納得できない者からの内部告発もあるかもしれない。加計学園に関しても公文書の偽造疑惑が指摘されているから、遅かれ早かれ加計問題にも飛び火するだろう。

 仮に、なぜ改ざんがなされたのか真相が分からないまま幕引きがなされたとして、佐川氏が人並みの良心を持ち合わせているのなら、一生、知っていることをありのまま話さなかったことに苛まれるのではなかろうか。しかも今日の答弁は多くの国民の期待や信頼を裏切った。つまり精神的苦悩を抱え込むことになるだろう。佐川氏は判断を誤った、私にはそう思えてならない。

2018年3月12日 (月)

原発事故から7年、日本は危機的状況から脱することができるのか

 東日本大震災と福島第一原発の事故が起きてから丸7年が過ぎたが、「現代ビジネス」に興味深い記事が掲載されていた。

福島原発事故から7年、復興政策に「異様な変化」が起きている

この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる「福島の未来」

 原発事故からの復興を利用した、安倍政権の「騙し」の手法、そして官僚の権力へのへつらいがひしひしと感じられるのだが、この無責任な政治や行政の根源はどこにあるのか? 筆者の山下氏は国の無責任化は「二大政党制」と「政治主導」ではじまったと言う。

 二大政党制を目的に導入された小選挙区制が民意を蔑にし、内閣人事局の創設で官僚の人事権を握って政治主導を手にした安倍政権が、今の末期的ともいえる騙し体質、無責任体質を生んでいるのは確かだと思う。

 森友学園をめぐって公文書の改ざんがあったことが明確になってきたが、こうした国民を欺く政権を解体させ、無責任体質を根本から変えねば、この国はまっとうな民主主義国家になれそうにない。原発事故からの復興政策も森友文書改ざん事件も、みんなつながっている。

 原発事故から7年経って私が何よりも懸念するのは、日本が再び大地震や大津波などの自然災害に襲われるのではないかということだ。御岳山が噴火し、草津白根山が噴火し、つい先日は九州の新燃岳が噴火した。火山活動が活発化しているということは、プレートに圧力がかかっているということだ。東日本大震災の直前にも新燃岳が噴火している。いつ再び大地震がおきてもおかしくないのに、国は原発事故を過小評価し、再稼働に血道を上げている。

 日本は政治においても自然災害に端を発する原発事故においても、ほんとうに危機的な状況に置かれている。

2018年3月11日 (日)

菅野完氏のツイートをリツイートすることが性暴力加害者を擁護することになるのか?

 昨日、ツイッターで菅野完氏と山崎雅弘氏の応報を見かけた。私は両氏をフォローしている。彼らのやりとりはどっちもどっちという感があるが、その応報の中で山崎氏が以下のツイートをリツイートしているのが目にとまった。

 ここにリンクされている菅野完をRTしながら#metooという人に、言いたいこと。という記事を読んでみたが、これについて私の意見を書いておきたい。

 まず前提として言っておくが、私は菅野完氏によるセクハラ(女性の自宅で女性に抱きついたあるいは押し倒したという事件。性暴力と言われているが、犯罪ではないのでセクハラと表現する)は明らかに人権侵害であり、やってはならないという立場だ。この点において彼を擁護する気はさらさらない。

 また菅野氏のツイッターでの暴言もまったく支持しないし、不快としか思わない。暴言によってツイッターを凍結されても擁護する気は毛頭ない(もっともツイッター社の凍結の判断が公平さを欠いているという認識はある)。もちろん菅野氏の暴言や他者を見下すツイートはリツイートしない。

 しかし、菅野氏のツイートをリツイートすることが彼を擁護することになるのか? 性暴力にノ―と言うなら彼のツイートをリツイートするな、などと言えるのか?

 山口敬之氏の犯した性暴力はどう考えてもレイプであり犯罪に該当する。自力で歩けない女性を無理やりホテルに連れ込み、意識を失っているのに性行為。極めて重大な性暴力だ。しかも、その犯罪を権力をつかって握りつぶした疑いがもたれている。そして、不起訴になったからと開き直り、言い訳ばかりして謝罪も反省もない。

 では菅野氏はどうか。菅野氏と被害者の間で事実関係について争いはなかった。菅野氏は加害行為を認めて謝罪し、示談交渉で被害者からの200万円の慰謝料要求も受け入れた。しかし被害者は言論活動の制限(ツイッターのアカウント停止等)にこだわって示談を蹴り裁判を起こした。さらに裁判での和解交渉も蹴った。私には、自分の性的被害を理由に言論活動の制限まで要求することの方が非常識だと思えてならない。被害者が加害者のツイートを見たくなければ、ブロックすれば済むはなしだろう。

 この裁判は高裁まで争って今年の2月8日に終結している。菅野氏は判決に従って110万円の慰謝料を支払っていると判断できる。民事訴訟で不法行為を認定されたものの、刑事事件にはなっておらず犯罪とは言えない。一方で、菅野氏によるセクハラは週刊金曜日やマスコミによって報じられ、菅野氏は社会的制裁も受けた。菅野氏は判決を受け入れて責任をとり、社会的制裁も受けてこの問題は決着がついている。セクハラをしたという事実は消えないが、自己保身のために事実をねじ曲げたり責任回避をしたわけではない。

 菅野氏の民事訴訟に関しては昨年以下の記事を書いたので参照していただきたいが、私は被害者の行動に不可解さを強く感じている。

菅野氏の民事訴訟について思うこと

 山口氏と菅野氏では、加害の内容(軽重)も全く異なるし、自分の罪を認めて責任をとるという態度においても大きな違いがある。山口氏の他にもセクハラ疑惑があるジャーナリストが複数いる。彼らに共通しているのは、自分の非を認めようとしなかったり、言い訳をしたり、責任をとろうとしないで逃げ回っているということだ。罪を犯したこともさることながら、この無責任さこそ人間性を露わしているのではないかと私は思えてならない。

 私は、このようなジャーナリストがまっとうな意見を言っていても、それを紹介する気にはなれない。性暴力加害者だとか犯罪者だからという理由で言論を封じることはあってはならないが、人権侵害をして反省もしなければ責任もとらない人が人権を語る資格はないし、言論人としての適性を欠くとしか思えないからだ。

 私も若い頃に顔見知りの男性からいきなり抱きつかれたことがある。電車での性的被害は何度もあっている。「me too」と言う立場にある。性暴力を受けた女性自衛官の裁判を傍聴したこともあるし、性暴力の重さも理解しているつもりだ。しかし、加害行為と言論の自由(リツイートも含む)は別問題であり、両者を結びつけて加害者擁護だという主張には首を傾げざるを得ない。

 人は完全ではない。誰もが罪を犯し得るし、人権侵害を犯してしまうこともあり得る(もちろん自制できないのは人間性の問題ではあるが)。そんなときに自分の非を認めて責任をとることこそ大きな勇気がいるし、人として誠実か否かが試される。それができる人とできない人を区別することなく、また加害の軽重も考慮せず、山口氏と菅野氏を「性暴力加害者」とひとくくりにし、言論と加害の問題を単純に結びつけてしまうような意見にはどうしても賛同できない。

2018年3月 8日 (木)

歴史に残る森友学園をめぐる腐敗政治

 森友学園問題が発覚してから一年余。安倍首相は2017年2月17日に「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と発言した。その後、安倍夫妻の関与を疑わせる証言、文書、録音記録などが次々に公表されたが、籠池夫妻を長期拘留して口封じをした上、丁寧な説明はいっさいせずに誤魔化してきた。

 そして問題発覚から一年たって出てきたのが3月2日に朝日新聞が報じた公文書改ざん疑惑。改ざんされたとされる文書は、2015年から16年に森友学園と土地取引をした際に近畿財務局の管財部門が局内の決済を受けるために作成した文書。「本件の特殊性に鑑み」「学園に価格提示を行う」などの表現が削除された改ざん文書が国会議員に開示されていたというのだから、事実なら国会も国民も愚弄したことになる。

 そして、今日は毎日新聞が朝日の後を追って改ざん疑惑を報じた。毎日新聞の場合は昨年9月に情報公開で開示請求した文書(財務局が学園に売却額の予定価格を通知した際の決裁文書)と昨年5月に国会に提出した同文書が異なっていることから、改ざんされた疑いがあるというもの。

森友文書 別文書に「特殊性」の表現 国会開示にはなし

 森友学園問題は発端こそ国有地の不可解な値引き問題だったが、疑惑追及の中で分かってきたのが安倍夫妻の関与。この一年間に公表されたさまざまな状況証拠からも、国有地の取引において安倍夫妻が関与していたと考えざるを得ない。要は加計学園問題と共に、首相夫妻が政治を私物化していたという疑惑。それを隠すことに必死になった挙句、公文書の改ざんという犯罪行為にまで手を染めてしまったなら愚劣極まる。

 多数の資料や録音という証拠があるにも関わらず、安倍首相が一年もの間のらりくらりと追及をかわしてこられたのは、2014年に設置した「内閣人事局」のおかげだろう。内閣人事局によって安倍首相に従う官僚ばかりが登用されるようになった。官僚はアメとムチによってコントロールされ、逆らうことがほぼ許されない体制を作り上げた。事実上の独裁だ。

 安倍首相は自分でつくりあげた恐怖体制によって、何でもまかり通ると思い上がってしまったようだ。しかも、今回の公文書改ざんは事実なら犯罪に該当する。改ざんを認めたらタダでは済まないことは十分理解している。しかし、これまで同様、シラを切り続けてもとりまきが自分を守ってくれると信じているのだろう。恐ろしいのはこの独裁政権が検察まで牛耳っていることだ。

 改ざん問題が今後どのようなことになるのか予測がつかないが、どうしても逃れられなくなったら、改ざんに関わった人物を処分して幕引きを図るつもりではなかろうか。恐怖体制を利用して徹底的にシラを切って逃げ切るというのが安倍政権のやり方だ。しかし、果たして朝日新聞と毎日新聞の2社が改ざん疑惑を報じた今度ばかりは、逃れきれるだろうか?

 これまで生きてきて、ここまで国会と国民を愚弄する政権は記憶にないし、保身のためにこういう首相に媚びへつらって恥じない取り巻きに怒りしか湧いてこない。彼らは、恥というもののかけらも持ち合わせていないのだろうか。

 このまま安倍政権が生き残るようなら、この国は間違いなく腐敗した独裁国家だ。後に、森友事件は戦後最大の政治の腐敗として歴史に残るだろう。

2018年2月24日 (土)

不十分な生活困窮者支援

 少し前のことになるが、1月31日、札幌の民間の自立支援施設「そしあるハイム」から出火し、入居者11人が亡くなるという悲惨な事故があった。スプリンクラーもない木造の古い建物だったことから、あっという間に全焼した。「そしあるハイム」は50年ほど前に建てられた旅館を利用した共同住宅で、生活困窮者の就労支援を目的として民間の合同会社「なんもさサポート」が運営していた。要は行き場のない生活困窮者の受け皿で、この施設があったからこそホームレスから抜け出すことができたという人も多い。入居者の多くが生活保護を受けていた。

 この火事をめぐっては、この施設が無届の老人ホームに当たるかどうかとか、スプリンクラーの設置がどうとかいった点が問題視されているのだが、そこばかりに視点を当てると、困窮者の自立支援を民間の組織が担っているという本質的な問題から目をそらすことになる。実際、警察や役所が生活困窮者に「なんもさサポート」を紹介していたという。つまり、こうした人たちを受け入れる公的施設がないのが実態なのだ。この火事は生活困窮者に対する行政の支援問題を浮き彫りにした。

 ホームレスなどの生活困窮者が生活保護を申請してアパートなどに入居することは不可能ではない。家賃の安いところを探せば、生活保護の受給額でもなんとかやっていける。ただし生活保護を申請する際には審査があり、一人で自立した生活ができるかどうかが問われる。高齢であったり、障害や病気で一人で自立した生活ができない場合は、自治体などが運営する更生施設や社会福祉法人などが運営する自立支援施設に頼るしかない。

 「そしあるハイム」は希望者には食事も提供しており、一人で自立した生活をすることができない高齢者の終の棲家になっていたという側面がある。古い建物でも、身よりのない人たちが協力しあって生活するかけがえのない場であったのだろう。

 私たちはいつ困難な状況に陥るか分からない。会社の倒産や解雇で職を失ったり、病気や怪我で働けなくなったり、親の介護で仕事を辞めざるを得なくなったり、自然災害などで家族や住宅を失ったり・・・。そんなときにも社会保障制度によって衣食住を保障されなければ法の元の平等、基本的人権が守られていることにはならない。

 ところが、ホームレスになってしまった人を「負け組」だとか「自己責任」だと嘲笑する人たちが一定程度いる。いったい誰が好んでホームレスになるというのだろう。個人の問題というより公的支援の問題が大きいにも関わらず、いとも簡単に「働いて自立せよ」などと言う人もいる。こういう人たちは、定職も身よりもない人がアパートを借りることすら極めて困難だという現実を分かっていないのだろう。今は賃貸住宅も空き部屋が沢山ある。しかし安定した収入がなかったり保証人のいない人にアパートを貸す家主は多くない。生活保護制度があるといっても、申請を受け付けてもらえない事例があとを絶たない。

 海外にお金をばら撒いたり軍事費に多額の予算をつけたり、無駄としか思えない公共事業もある。その一方で、ホームレスや生活困窮者のための施設運営すらできないというのは国の怠慢というほかない。

 ホームレスをなくし、生活困窮者をなくすには、行政が自立支援の施設を用意することも必要だが、それと同時に一人ひとりに寄りそってアパートを借りるための手続きや就労の支援、その後の見守りなどきめ細かいバックアップをすることも重要ではなかろうか。日本の社会保障制度にはそのようなソフト面が決定的に欠けていると思う。

 日本はこれから否応なしに少子高齢化が進む。こうした中で、住宅を借りる際に保証人になってくれる身内のいない人も増えるだろう。非正規雇用が増える中で、国民年金すら納められない人も多い。2人以上の世帯で貯蓄ゼロの世帯は3割もあるという。無年金の人や年金だけでは暮らせない人はこれからどんどん増えていく。今は健康でも、病気などで働くことができなくなれば公的支援に頼るほかない。ところが、今の政治を見ていると社会的弱者が安心して生きられる社会とは正反対の方向に向かっている。さらに驚くのは、そんな政権を支持する若者たちが多いということだ。彼らは社会的弱者を切り捨てる政治をよしとしているのだろうか? 自分の将来に不安がないのだろうか?

 「勝ち組」とか「負け組」という言葉を耳にするようになったのはいつからだろうか。格差を勝ち負けで表すとは何て嫌な表現だろうと思う。勝った者は負けたものを見下して「自己責任」だと切り捨てる。勝者になれなかった者は、バッシングできる相手を探して匿名で罵ったり嘲笑したりする。全員が「勝ち組」になれるはずもなく「負け組」の人たちがいなければ社会が回らないのだから、こうした格差は個人の努力の問題ではなく社会のシステムの問題だ。それなのにそのシステムを改善する方向に向かわず弱者を嘲笑するような人たちに寒気がしてならない。

«資本主義がもたらしたバッシング社会

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