2018年2月11日 (日)

資本主義がもたらしたバッシング社会

 オリンピックにはほとんど関心がないが、オリンピックが始まるとメダルの数や選手に対する期待の強さに辟易とする。と思っていたら、リテラにこんな記事が出ていた。

   平昌ではジャンプの高梨沙羅が標的に・・・五輪選手への道徳押しつけバッシングの異常! 今井メロや國母和宏が心境告白

 スノーボードハーフパイプで予選落ちした今井メロ選手に対する嫌がらせ、高梨沙羅選手、國母和宏選手、里谷多英選手、安藤美姫選手らへの異常なバッシング。これらは批判(物事に検討を加えて、判定・評価すること)といえるものでは決してなく、単なる暴言、悪口だ。ここまで酷いのかと思うと、気分が悪くなってくる。

 これらのバッシングは、選手に対する過大な期待だけの話しではない。何でもいいから批判できることを探しては叩く、つまり人を叩くこと自体が目的になっている人たちが一定程度いるということだ。

 思い返せば、2004年にイラクで日本人の3人の若者が拘束された時のバッシングも凄まじかった。あの頃はインターネットも広く定着してきた時期だったが、人質になった今井紀明さんのところには罵声や嫌がらせの電話のほか、大量の非難の手紙が送られてきて、彼はしばらく部屋に引きこもったという。

 近年では、2015年から2016年にかけて活動した安保法制案に反対する学生グループSEALDsのメンバーに対する異常な攻撃もあった。ネット空間で名指しで攻撃されてもまったく平気で動じないという人はほとんどいないだろう。自分は決して傷つかない匿名で、他人を傷つけることこそがバッシングする人たちの目的なのだろうと思うとおぞましい限りだ。

 匿名で言いたい放題にできるインターネットが、バッシングや炎上を広げていることは間違いないだろう。しかしリテラの記事にあるように、言いがかりとしか言いようがないことでバッシングするというのはもはや常軌を逸している。鬱屈した人間が異常なほどに増えてきているとも思う。

 ツイッターを見ていても、他人の意見にいちいち言いがかりをつけたり揚げ足取りをする人の何と多いことか。この精神の歪みは、やはり社会を反映しているものなのだろう。他人をバッシングして憂さ晴らしをするという精神の根底には、競争社会と格差の拡大が間違いなくある。

 競争というのは、自分がのし上がるために他人を蹴落とすことでもある。競争をさせられると周りの人たちはすべて敵になってしまう。そして「敵か味方か」「勝ちか負けか」という物の見方をするようになる。競争に勝った人は負けた人たちを見下すことになりかねない。また、競争に負けた人たちは、他人の粗探しをしてバッシングすることで優越感を得ようとする。妬みや恨み、復讐心に満ちた世界に平和などない。

 「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるが、他人の不幸を喜ぶという心理は、人間のネガティブな感情に起因するらしい。こちらの記事によると、以下のようなことが分かってきているそうだ。

“相手に対して「妬み」の感情を抱いている時、脳はその人の不幸を、より強く「喜び」として感じます” “一方で私たちは、相手に特に妬みの感情を抱いていない場合、不幸にみまわれた人を心配したり、かわいそうな境遇にいる人に同情したりします”


 日本では子どもの頃から競争にさらされ、勝者と敗者に分けられていく。さらに富裕層と貧困層の二極化が進めば進むほど、ネガティブな感情が渦巻いていく。こうしてバッシングの土壌がつくられていくのだろう。その根源は人々を競争に追い立て、挙句の果て格差を拡大させた新自由主義的な資本主義に行きつく。このまま資本主義を続けようとする限り格差はさらに拡大し、バッシング行為は激しくはなっても収まることはないだろう。

2018年2月 1日 (木)

定常経済を説く、内田樹「ローカリズム宣言」

 前回はナオミ・クラインの「これがすべてを変える」について書いたが、その後に内田樹著「ローカリズム宣言」を読んだ。ナオミ・クラインは地球温暖化の危機は市場原理主義、グローバル化がもたらしたのであり、温暖化の危機を回避するためには経済成長から脱しなければならないと主張する。一方で内田氏は、グローバル資本主義は終焉を迎えようとしており、今後は経済成長から脱して定常経済モデルを手作りしていく必要があるという。

 二人の発想の基点は異なるものの、ともに目指す方向は「脱成長」すなわち「定常経済」であり、キーワードは「ローカル」「共同体」だ。温暖化問題をつきつめればその解決は定常経済に行き着く。また、経済成長がゼロに近づき格差の拡大が止まらない上に少子高齢化から逃れられない日本の現状からも、もはや経済成長を続けるのは無理があると考えるのは当然だろう。

 内田樹氏の説明は極めて明快で、経済学の知識がなくても非常に分かりやすい。人の生理的欲求には限界があるので、衣食住の基本的な制度が整備されると経済活動は鈍化する。人間は限界を超えた消費活動をすることができない。この経済成長の基本原理を忘れたことで、経済をめぐる無数の倒錯が起きていると内田氏は指摘する。

 この当たり前のことこそ、私自身が経験してきた。私が子どもの頃はまだ物がそれほど溢れてはおらず、衣類にしても文房具にしても与えられたものを大事に使っていた。ところが今はどうだろう。街の商店にも、家の中にも、生きていく上でどうしても必要だとは思えない雑多なものが溢れている。私も歳と共に少しずつ物の整理をしているが、ほとんど使わずしまいこまれている物がいかに多いことかと驚いてしまう。最近では、消耗品や生活必需品以外の物はほとんど買わない(ただし本だけは買ってしまうが)。なぜなら興味本位の安易な買い物は、結果的にゴミを増やすだけだと身をもって経験してきたからだ。

 私が学生の頃は、一億総中流などと言われた。どの家でも洗濯機や冷蔵庫、テレビなどの家電が一通り揃い、雇用も終身雇用で安定していた。ところがバブルが崩壊し、米国型の経済システムを真似るようになってから非正規雇用という不安定で低賃金の労働者が増え、格差が拡大し、福祉も医療も削られている。これこそ新自由主義型の資本主義のなれの果てであり、経済成長が永遠に続くなどということはあり得ないことを示している。

 内田氏は、政党が株式会社化し、国会はシャンシャン株主総会になったと言う。政党は執行部の指示に反抗しないイエスマンを候補者として選挙に送りだすようになり、国会が形骸化し機能しなくなってしまったと。資本主義の競争社会の中で、国会だけではなく行政も医療も学校も、日本の社会集団のすべてが株式会社のようになってしまったと指摘する。イエスマンを従えた安倍首相は、数の論理を盾にやりたい放題。ほとんど独裁状態であり、その暴走を誰も止めることができない。

 日本中が株式会社化し、資本主義の競争原理が個人の主体性を失わせているというのはたしかにその通りだろう。もっとも私個人としては、もともと同調圧力が強く働いている共同体に資本主義の競争原理が加わって、ますます個人の主体性や個性が失われてしまったという印象を抱いている。いずれにしても同調と競争を強いられる集団ほど息苦しいものはないし、多くの日本人はまさにその息苦しさに喘いでいるのではなかろうか。

 このまま経済成長を続けようとするとどうなるのか。内田氏は経済学者の水野和夫氏の主張を持ち出し、企業の収入は増えるが労働者はどんどん貧しくなっていくと指摘している。ますます貧富の差が拡大するということだ。水野氏は資本主義の先に定常経済(ゼロ成長)がくると予測しているそうだ。

 私は、資本主義というのは地球の自然環境を破壊して資源を消費しつづけるシステムであり、自然に逆らうシステムに他ならないと思っている。自然の摂理に反するシステムがいつまでも続くはずはない。人は自然なくしては生きられないが、地球の資源(自然環境)は限られているわけで、資源を使い放題にしたうえに環境を破壊し汚染してしまったなら人類は生存し続けることはできない。資源の無駄遣いを止め、生態系のサイクルからはみ出さないような持続可能な生活を維持しなければ、人類に未来はない。つまりは定常的な社会だ。これから目指すべきはエネルギー(もちろん再生可能エネルギー)も含めた地域での自給自足の生活ではないかと思っている。

 内田氏も、自然環境を守ることは資産を守ることであり、経済成長のためにこの資産を汚したり捨て値で売ったら、今の日本の経済力では未来永劫買い戻すことはできないと言う。経済成長を唱える人たちは、このことになぜ気が回らないのだろうか? 私は不思議でならない。

 新聞などのマスコミであろうと個人であろうと「脱経済成長」とか「定常経済」を主張する人は極めて限られている。経済成長を否定しようものなら、トンデモ扱いされるというのが現実ではなかろうか。まるで経済成長がない社会は夢も希望もない世界だと言わんばかりだ。

 しかし、定常経済というのはそれほど夢も希望もないつまらない社会なのだろうか? あるいは今の便利な暮らしを捨てなければならないのだろうか? 水野氏は、定常経済で株式会社は収益を人件費と減価償却に充て、株主への配当は定期預金の金利程度にすると、賃金は50%アップすると試算しているそうだ。ならば、決して「みんなで貧乏になる」ということにはならない。急激な発展もないけれど、時間に追い立てられることも過度の競争もない社会が悪いとは思えない。少なくとも私は今の生活は十分便利だと思うし、衣食住に困らなければ進歩が緩やかであったとしても何ら問題ないと思う。

 少子高齢化が進み労働者人口が減るとはいえ、海外へのばら撒きを抑制し、軍事費を縮小し、米軍への思いやり予算を削減し、無駄な公共事業を止めれば、社会福祉や医療、教育などの充実も図れるのではなかろうか。息が詰まるような競争ではなく、互いに協力し合う生活こそ、人として健全だろうと思う。アドラーの言う「共同体感覚」が重なってくる。

 内田氏は資本主義の終焉を直感した人たちが、都会から地方へと脱出し始めているという。経済成長ゼロの時代を乗り切るために、地域の共同体を再生し人々が互いに助けあいながら「小商い」をすることを提唱する。

 北海道の地方ではここ数十年の間に鉄道が消え、学校が統廃合され、医療機関が次々と姿を消し、商店街はシャッター街となり、人口の減少と高齢化が進んでいる。一方で数は少ないながら地方に移住してくる人たちもいる。とはいうものの、地方、とりわけ農村のコミュニティーは人づてに伝わってくる話しを聴く限り極めて閉鎖的で排他的だ。つまり、従順な者は受け入れても異質な者を排除するという慣習が色濃く残っている。

 資本主義の終焉の時代を生き抜くために最も必要なのは、主体性を持った多様な人々が共存できるコミュニティーの形成だ。都会であれ田舎であれ、人々が競争やお金儲けの意識から脱し、協力的な人間関係をつくりあげることができるかどうかが大きな鍵になるように思える。

 なお、本書のまえがきは以下から読むことができる。
「ローカリズム宣言」まえがき

 内田氏の以下の論考も紹介しておきたい。
日本はこれからどこへ行くのか

2018年1月27日 (土)

温暖化への警告の書、ナオミ・クライン著「これがすべてを変える」

 カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインの「これがすべてを変える 資本主義VS 気候変動」(上・下2巻 岩波書店)を読み終えた。上下巻合わせ、本文だけで600ページ(引用文献が上下巻合わせ130ページほど)を超える大作だ。

 近年は夏の異常な高温や集中豪雨、あるいは寒波などの異常気象が目に見えて増えてきているにも関わらず、日本では地球温暖化の問題が深刻に捉えられているとは思えない。アル・ゴアの「不都合な真実」が話題になった頃は温暖化議論も活発化したが、昨今では温暖化問題はさっぱり目にしなくなった。

 それどころか、「地球は寒冷化しているから化石燃料をどんどん燃やしても問題ない」「温暖化説は陰謀」などといった温暖化否定論や陰謀論が一定程度の支持を得ているようだ。とりわけ反原発を唱える人の中にこうした陰謀論が根強いように感じる。CO2温暖化説は原子力推進派による陰謀だと。

 私もブログやツイッターで温暖化説を支持する発言をした際に、否定派の人から「説得」とも受け取れる反論をされたことがある。彼らは完全に否定論や陰謀論を信じこんでいるから本書などは読む気もないのだろうけれど、本書を読めば、化石燃料採掘会社と、化石燃料の消費によって富を得ている一握りの人たちこそが温暖化否定論や陰謀論の根源であることを思い知らされる。

 今や97%の科学者がCO2による地球温暖化を認めているし、このまま二酸化炭素の放出量が増え続けると今世紀終わりまでに世界の気温は今より4度上昇するという予測まである。4度上昇した世界がどんなものになるのか。海水面が上昇し、いくつかの島嶼国家だけではなく広範囲にわたって海岸部が水没する。熱波が人の命を奪い、暑さのために主要作物の収穫量が大幅に減少。干ばつや洪水、害虫の大発生、漁業の崩壊、水供給の破壊・・・。そして何よりも恐ろしいのは、ティッピングポイントと呼ばれる臨界点を超えてしまった場合に起こる暴走。そうなったらもはや人の力で阻止することは不可能だ。

 地球温暖化をこのまま放置したなら世界中の人々に壊滅的な影響を与える。だからこそ世界の国々が温室効果ガス削減に向けて交渉を続けてきたが、二酸化炭素の放出量を減らし、再生可能エネルギーに転換する取り組みは遅々として進まない。二酸化炭素の排出量は増える一方で、最悪の事態に向かって突き進んでいる。著者はその理由を規制緩和とグローバル化を推し進めてきた市場原理主義にあると喝破する。

 大量生産と大量消費、グローバル化による物資の大量輸送が化石燃料を大量に消費することは言うまでもない。さらに、新自由主義によって富の極端な集中と格差の拡大がもたらされた。今すぐに市場原理主義から持続可能な経済へと変革していかなければ温暖化による壊滅的な被害は避けられないが、今ならかろうじて間に合うと著者は言う。

 端的に言うなら経済成長を目指す資本主義から脱するしか解決の道はない。本書のタイトルには「資本主義 VS 気候変動」とあるが、だからといって社会主義を主張しているわけではない。独裁的社会主義もまた資源をむさぼり廃棄物をばら撒いてきたからだ。すなわち、搾取主義と過度の輸出から脱し、持続可能な社会を築くしか道はない。

 具体的には、大量消費のライフスタイルを見直すとともに、リサイクル、公共交通の利用や農産物の地産地消などを進める。また国による規制強化や炭素税、富裕層への課税強化などによる収入の確保、地域コミュニティーによる再生可能エネルギーの管理、公共交通や再生エネルギーなどへの公共投資を提案する。経済成長から定常経済への移行は決して不便な時代への逆戻りではない。真の民主主義を取り戻すことで格差を解消し人々の生活を向上させることが可能だという。

 著者が最も言いたいのは、我々が直面している地球温暖化の危機は、新自由主義による暴走や格差の拡大を絶ち切って真に民主的な社会を構築するチャンスになり得るということだ。たとえば著者が「抵抗地帯」と呼ぶ化石燃料採掘やパイプラインの建設に反対する住民運動が世界で繰り広げられるようになった。こうした人たちが再生可能エネルギーの推進、転換へと動き始めている。地域に根差した草の根の運動こそが改革を可能にするというのが著者の考えだ。

 私自身、これまでもブログやツイッターで「永遠の経済成長などあり得ない」という主張をしてきた。地球の資源は有限であり、人類も地球の生態系の一員である以上、資源の浪費を止め持続可能な暮らしを維持しない限り、人類は自分で自分の首を絞めることになりいつか破綻すると。地球温暖化は人類が地下に眠っている化石燃料を使い放題にし、そこから得られる利益を一部の人たちが独占するという資本主義のシステムによってもたらされたというナオミ・クラインの指摘はその通りだと思う。

 地球上で、環境を汚染させ、富の蓄積を目指す生物など人間の他にいない。地球のシステム、自然の力は人類の知恵や技術に及ばない。生態系から大きくはみ出して環境を汚染させ続けたなら、必ず自然によるしっぺ返しがくる。その一つが地球温暖化だ。

 昨今は石油に変わって天然ガスがもてはやされている。しかし、フラッキング(水圧破砕)によるシェールガス・オイルの抽出やオイルサンドの採掘が従来の化石燃料の採掘より遥かに多くの温室効果ガスを排出することは日本ではほとんど報じられない。またこれらの採掘は自然破壊だけでなく有毒物質による環境汚染を引き起こし、パイプラインからの漏出は大規模な環境汚染を引き起こしている。私たちはこうした事実を知り、危機感を持って向き合わねばならないと痛感した。

 本書は2014年に出版され、すぐさま25カ国語に翻訳されたという。それほど注目を浴びる書だ。しかし、恐らく日本ではこの大著を手にする人は多くないだろう。なぜか日本ではあまりに地球温暖化に対して危機感が薄く、不思議なほど大きな話題にならない。福島の原発事故を体験したがゆえ、とりあえずは化石燃料の利用もやむを得ないという考えがはびこっているような気がしてならない。しかし、いつまでも化石燃料に頼っていることにはならないだろう。

 自分の利益しか考えない人たちによって地球に危機がもたらされたのだ。地球温暖化の事実を知った私たちの世代こそ、地球の未来に大きな責任を負っている。

2018年1月18日 (木)

不可解な子宮頚がんワクチン(HPVワクチン)推進論、WHOも関与か?(追記あり)

 今、インターネットで「子宮頚がん ワクチン」と検索すると、ワクチンを推奨する意見が上位に並ぶ。これらの記事を読んで、子宮頚がんワクチンの副反応と言われているものは心因性であり、ワクチンによる副反応という主張はエビデンスがないと信じてしまう人も多いかもしれない。

 しかし、ちょっと待ってほしい。そもそも検索上位に出てくる記事が正しいなどとは言えない。私は福島の原発事故が起きる前に使用済み核燃料の保管についてネット検索したのだが、いわゆる原発推進派と見られる安全論ばかりが出てきたことをよく覚えている。検索順位などいくらでも操作できる。だから、原子力問題をはじめとした利権構造がある問題や議論が分かれるような問題に関しては十分な情報収集が欠かせない。

 そしてこの子宮頚がんワクチン問題で何よりも不可解なのは、公費負担の対象となっている少女は無料ないしは低額でワクチンの接種ができるにも関わらず、なぜこれほど推奨記事が溢れているのかという単純な疑問だ。

 まず、ツイッターで得た情報から、子宮頚がんワクチンの接種後に体調不良が生じた少女たちを診察した医師たちの見解や論文などをいくつか紹介したい。

ハンス病を主張する横田俊平医師による説明
HPVワクチン報告
HPVワクチン副反応報告 後半  

自己免疫性脳症を提唱する高畑克徳・高嶋博氏による論文
自己免疫性のj賞を見極めるための新しい神経診察の提案-身体表現性障害との鑑別-  

ワクチン接種により惹起された免疫反応的脳炎モデルではないかとする長尾和宏医師の見解
子宮頚がんワクチン被害者を診てほしい

 子宮頚がんワクチンの問題は副反応だけではない。ワクチンそのものの効果の問題がある。以下は副反応のほかに有効性も含めて問題点がまとめられている。

日本におけるHPVワクチン有害反応の教訓:医療倫理学的観点

 ここから予防効果に関する重点部分を以下に引用しておきたい。

 HPVワクチン接種を推進する人々はこれらのワクチンが子宮頚がん予防に98-100%有効だと言うが、実際にはHPVワクチンで期待しうる絶対リスク減少(ARR)を既存のデータをもとに計算すると、たかだか0.1~0.7%に過ぎない。しかも、それは前がん病変をきたすリスクを低下させただけで、子宮頚がんのリスクについては不明なままである。

 一方で、副反応とされる症状は心因性であると主張し昨今もっともメディアを賑わせているのは医師・ジャーナリストの肩書を持つ村中璃子氏だろう。村中氏の主な記事はこちらにまとめられている。

特集:子宮頚がんワクチン問題

 私は村中璃子氏の一連の記事を読んで、非常に巧みだと思った。村中氏は患者を診察し子宮頚がんワクチンの副反応であると主張する臨床医たちの見解について、いずれもエビデンスがない単なる仮説だと主張し心因説を強調する。しかし、彼女の主張する心因説とて仮説でありエビデンスはない。仮説を並べておきながら、心因説のほうが正しいとばかりに誘導しているのだ。明らかに偏った書き方だろう。また記事中のインタビューで心因性を主張する医師はほとんどが匿名だ。なぜ堂々と実名で話せないのだろうか?

 彼女は肩書を医師としながら、勤務している医療機関などは書かれていない。そして、被害を訴える少女たちを自分で診察したという記述は見あたらない。それどころか取材にあたってジャーナリストおよび医師の職業倫理にも抵触する不適切な行為があったとして弁護士から内容証明郵便を送付されている。

村中璃子氏の不適切取材の全容(内容証明)

 もう一つ、巧みだと思ったのはこちらの記事の以下の記述。
 この記事を出すには大変な勇気が必要だった。筆者が製薬会社の回し者である、国のプロパガンダを広げる御用医師だといった根も葉もない中傷も寄せられている。そういった反応があるのは想定の範囲内だったが、考えてみてほしい。この記事を書くことは筆者にとってリスクになることはあれ、どんな得になるというのだろうか。

 自分は製薬会社とは全く関係がなくこうした意見を書くのはリスクしかないと主張しているが、私にはこのような書き方をすることで予防線を張っているのではないかと思えてならない。

 ウィキペディアで彼女の経歴を調べると、「外資系製薬会社の疫学担当ディレクターを経て」とある。製薬会社と全くの無関係とは言えないだろう。

 また、これらの記事のプロフィールに「WHO(世界保健機関)の新興・再興感染症対策チーム等を経て」とある。ウィキペディアでは「WHO(世界保健機構)の医療社会学者」と書かれており、WHOとの関わりが深い。というとWHOなら信用できると思う人は多いかもしれない。しかし、私はWHO自体に大きな疑問を抱いている。以下の記事を是非お読みいただきたい。

WHO(世界保健機関)がおかしい TPPの国際安全基準のいかがわしさ

 新型インフルエンザワクチンと子宮頚がんワクチンの販売にWHOが関与したのではないかという疑惑を指摘しているのだが、この記事から重要な部分を引用しておきたい。
さらに、新型インフルエンザワクチンや子宮頚ガンワクチンのメーカーであるグラクソ・スミス・クライン社は、マラリアの新治療療法の開発などの具体的な事業でWHOと協力して支援している。
グラクソ・スミス・クライン社は、ニューヨークタイムズ社によってCSRの実績第一位として評価されたこともある会社であるから探せばもっと多くの協力をWHOとの間で行っている可能性が高い。
理念はあっても、カネがなければ、WHOも意欲的な事業は行えないのである。
そしていったん、支援を受けて事業を始めれば、スポンサーの意向は無視できなくなる。  

 早い話し、子宮頚がんワクチンを製造しているグラクソ・スミス・クライン社はWHOのスポンサーという関係のようだ。

 WHOが原子力分野でも独立性を失っていることは私も以下の記事で触れた。WHOという名称だけで信用してしまうのは危険というほかない。

国際原子力ムラという諸悪の根源
チェルノブイリの事実と日本のとるべき対応

 江戸川大学教授の隈本邦彦氏はワクチンムラという特殊な利権構造について指摘している。
インタビュー「被害を生みだすワクチンビジネス」

 製薬会社と医師の癒着は今に始まったことではない。ワクチンに関しても当然利権構造があるだろう。ちなみに3回のワクチン接種の費用はおよそ5万円と言われる。少女たちを対象に定期接種にできれば製薬会社の利益は莫大なものになる。

 村中璃子氏の記事には何度もWHOの見解が出てくる。ワクチンを製造している製薬会社がスポンサーとなっているWHOの見解を盾にワクチンの副反応を否定して接種を推し進める村中璃子氏と、被害を訴える患者を診察して治療に尽力している医師のどちらが信用できるだろうか? 私は間違いなく後者に軍配を上げる。

【1月19日追記】
 以下のtogetterは、HPVワクチンの副反応に関する資料や論文などがまとめられており、この問題を考える上で大変参考になる。
HPVワクチンと自己免疫反応

2018年1月 9日 (火)

gooブログで浮上した読者登録水増し疑惑(追記あり)

 私がしばしば閲覧している「消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)」でgooブログの読者登録水増し疑惑が取り上げられているので、その問題について紹介したい。

 まず、gooブログの読者登録システムについて説明しておきたい。gooブログでは読者登録というシステムを採用している。これはgooでブログを書いている人が、自分がよく見ているgooブログを読者登録すると、編集画面で登録したブログの更新情報が確認できるという機能だ。読者は最大500人まで登録できる。

 また、編集画面の「読者管理」のページからは自分が読者登録したブログの一覧および自分を読者登録しているブログの一覧を見ることもでき、読者登録を拒否することもできる。この読者登録はログインが必要でgooブログを利用している人しかできないとのこと。

 あるブログを読者登録している人の数は、そのブログのサイドバーのプロフィール欄にある「読者になる」ボタンの横に表示される(プロフィール欄を非常時にしているブログでは表示されない)。

 詳しくはこちらのページの説明をお読みいただきたい。

 仕組みとしてはツイッターのフォローとフォロワーの関係に似ている。ただしツイッターの場合はフォローあるいはフォロワーがアカウントを削除した場合はそれに応じてフォローあるいはフォロワー数が減るが、gooの読者登録の場合はブログを削除したあとも登録者の一覧に残り続けるという。

 読者登録数は多くの場合、数十から数百程度のようだが、中には数千、あるいは数万の読者数のブロガーもいる。疑惑はこうした多数の読者数を誇るブログで生じているという。

 つまり、数千、数万の読者数を誇る方の読者登録のページにアクセスしてそこに表示されるブログをクリックすると、記事のない、すなわち実体のない幽霊ブログが多数を占めているというのだ。ただし、私はgooを利用していないので、自分では確認していない。

 ここから浮かび上がるのは、誰かが記事のない形だけのブログを次々と立ちあげてそこから特定のブログを読者登録しているという疑惑だ。こうすることで見かけの読者登録数を増やすことができる。

 それが事実だとしたら一体誰がそんなことをしているのだろうか? gooの場合、一人で複数のブログを開設することができるようなので、誰でもできるということになる。記事のないブログを存在させ続けることも可能だろうが、読者登録をしてから削除してしまっても登録だけは残るので、たとえば毎日複数の架空ブログをつくっては読者登録のあとに削除してしまうということもできるだろう。

 何のメリットもない人がそんなことをやるとは思えない。考えられるのは読者登録を増やしたいブログ主、あるいはそのブログ主の家族や友人、知人。あとはgooというあたりではなかろうか。ただし、数千、数万もの読者を持つ人がこつこつとこれをやるのはかなりのエネルギーがいる。gooの場合は、ブログ数を水増しすることで公告をとる際に有利になるというメリットがあるが、果たしてプロバイダーがそんなことまでやるだろうか?

 この水増し疑惑が事実なら、どう考えても不正な読者登録であり登録数の水増しだ。gooでは利用規約に公序良俗に反する行為は禁止事項に該当するとあるので、利用規約にも抵触する可能性がある。もしこの水増しにgooが直接関わっているならスキャンダルでありgooの信用に大きく関わることになるだろう。

 私としては、このような不正ができなくなるようにgooがシステムを改善するとか、架空ブログの削除に乗り出すとか、通報を促し規約違反として適切な対処をするとか、あるいは読者登録制度自体を廃止するなど、速やかに対策をとるべきことだと思う。

 もしgooが何の対策もとらずに放置するのならgooが関与しているという疑惑はなくならないだろう。

 この問題を記事にしようとしたクンちゃんは、なぜか記事が反映されなかったり削除されたりしたという。不正疑惑に関する記事を封じるようなことがあったら、ますますgooの信用は堕ちてしまうだろう。早急に対処してほしい。

 クンちゃんの関連記事は以下。

珍しくもない、ありふれた営業手法なのか! 
珍しくもない、ありふれた営業手法なのか!その2 
これが反映されるか? ゴースト・ウィリーを探せ! 

 なお、gooに関しては以下のような疑惑もあることを書き添えておきたい。

gooブログのアクセス数は水増し? 計算すると実際はこれくらい。

 

【1月10日追記】
 上記記事では幽霊ブログについて「ただし、私はgooを利用していないので、自分では確認していない」と書いた。しかし、サイドバーのプロフィールの「読者になる」ボタンの横に表示されている数字をクリックすると、そのブログを読者登録している人の一覧を誰もが見られることが分かった。

  そこでgooブログのトップページからランキング上位のブログをクリックすると、すぐに4万近い読者登録のあるブログを見つけることができた。猫の写真を掲載しているブログだ。そのブログの読者登録数をクリックすると、タイトルだけで記事がまったくないブログが大半を占めている。ブログタイトルもアルファベットで意味不明のものが沢山あるし、デザインも単調なグレイの画面のものばかりだ。中には記事があるものもあるが、継続的な投稿がなく不自然なものも多い。

  どう考えても誰かが意図的にブログを量産して読者登録しているとしか思えない。そして、読者登録数をチェックしてみるとこのブログの読者登録数は一日に数十という単位で増加している。驚異的な増加数だ。

  さらに驚いたのは、その中にニセモノと思われるブログも混じっていたことだ。その本物とニセモノのアドレスを以下に貼っておきたい。上が本物で、下がニセモノと思われる。
http://blog.goo.ne.jp/fujikawa19630622 
http://blog.goo.ne.jp/rupavire
 

  このニセモノブログは削除される可能性があるので、念のためスクショを貼っておく。
Sonodanise_2



 なお、ブログが削除されたにも関わらず読者登録に残っている場合は、そのブログをクリックすると「指定されたブログが見つかりませんでした」と表示される。ということは、これらのブログは削除されていないことになる。gooの新着ブログ数としてカウントされているのだろう。ならばgooは膨大な数の幽霊ブログを持っていることになる。

  そしてクンちゃんのこちらの記事からは、複数のブログを読者登録している幽霊ブログもあることが示唆される。ということはブログ主が自分のブログの読者登録数を増やすだけの目的でやっているというわけではなさそうだ。

  これらのブログはもしかしたら人間が一つ一つ作っているのではなく、コンピューターなどが自動的に作成しているのではなかろうか?(そんなことができるかどうかは知らないが、スパムコメントではそのようなものもあるらしい)。gooは、少なくともニセブログや記事のないブログはスパムブログとして削除するべきだろう。

  しかし、こんな幽霊ブログ読者を沢山持っているブログ主は気持ちが悪くないのだろうか。もし私がブログ主だったらすぐにgooに通報するとか、登録拒否にすると思う。これを放置しているブログ主も不可解といえば不可解だ。いったい誰がこんなことをやっているのだろうか。 


【1月10日追記2】

 クンちゃんの新記事がアップされたが、クンちゃんはgooがやっているのではないかと推測している。
 クンちゃんはアクセス数の水増し疑惑についても書いているが、アクセス数の水増しはアメブロなどでもよく知られているらしく多くの人が指摘している。また、アメブロでは読者登録すると必然的にアクセス数が跳ね上がり順位も上がるのだそうだ。gooの読者登録もそういう意味合いがあるのかもしれない。以下参照。
 
 まあ、アクセス数もブログ運営会社が公表している総ブログ数も「あてにならない」と思っていたほうが良さそうだ。モラルも何もあったものではない世界なのか。

2017年12月29日 (金)

非を認めない人の行く末

 現実世界でもネットの世界でも、自分の過ち(事実誤認も含む)、落ち度、不適切な言動などを決して認めない人たちが一定程度いる。

 このような人たちは二つに分けられる。ひとつは自分の言動が間違っている(あるいは不適切である)ことが分かっていながら、自分の非を認めたくないためにいろいろな言い訳をして自己正当化してしまう人だ。自分を良く見せるために、あるいは嫌われないために、自己正当化せずにはいられないのかもしれない。

 このような人たちが過ちを指摘されて窮地に陥ると、しばしば自己正当化のために嘘をつく。そしてその嘘を隠すためにさらに嘘をつくという悪循環に陥ることもある。

 あるいは、自分は被害者であり他の人が悪いのだと言い張ったりすることもある。特にネットの場合は自作自演で一人で何役もやって自己正当化する人がいる。さらに、自己正当化のために自分を信頼している人を利用する人もいるから要注意だ。

 自分には非がないと言い張り、嘘をついたり自作自演で誤魔化したり、自己正当化のために他人を利用したらどうなるか。それを見ている多くの人はその人の嘘に感づいてしまい、離れていってしまうだろう。利用された人は、自分が利用されたことに気づいた時点で去っていくだろう。結局、信頼関係を失い孤立することになりかねない。

 もう一つは、第三者から見れば事実誤認をしていることが明らかであるにも関わらず、当人はまったくそう思っていない人だ。いわゆる思い込みの激しい人で、自分の考えこそ正しいと信じ込んでいて他人の指摘など一切聞き入れない。第三者がどれほど丁寧に誤りや勘違いを説明しても、理解できない。理解できないというより理解する気がないといった方が正しいかもしれない。いわゆる「バカの壁」状態になっている人だ。

 このような人は、時として過ちを指摘した人たちを恨んだり敵視して攻撃したりする。自分は間違っていないと思い込んでいるので、自分の間違いを指摘したり批判する人こそ加害者であり、自分は被害者だと主張することもある。状況を俯瞰することができず自分を客観視することができない人がこのような状況に陥りやすいように思う。

 人は誰しも不完全であり、誰しもが過ちを犯したり勘違いをしたり思い込みをする。もちろん間違いをしないように注意しなければならないが、それでも間違ったり思い込みをするのが人間だ。そのときとるべき最善の方法は、速やかに過ちを認めて訂正し、もしそれで他人に迷惑をかけたのなら謝罪するしかない。そして、その経験をもとに同じ過ちを繰り返さないようにする。それが自分の過ちに対する責任の取り方だ。

 しかし非を認めなかったらどうなるか。それは責任を取らないということなのだが、責任をとらなければ批判されたり信頼を失うことになる。嘘に嘘を重ねれば信頼を損なって人が離れていく。自明のことだ。

 自分の非を認めないというのは、おそらく自分を良く見せたい、あるいは嫌われたくないという心理からきている。自己顕示欲や承認欲求の強い人がこういう状態に陥りやすい。

 強い思い込みによって自分の非や事実誤認に気づかない人も同じで、第三者から事実誤認を指摘されても聞き入れずに突っ張っていたら、やがて愛想を尽かされ信頼を失ってしまうのではなかろうか。このような人は、「白黒思考」や「べき思考」の習慣がついている人に多いように思う。だから、一度はまり込んだ自分の考えから一歩も外に出ようとはしない。

 いずれも、子どもの頃に自分自身で身に付けた性格(考え方)が「非を認めない」「過ちに気づけない」という状況を作りだしているのだろう。そして、残念ながら多くの人は一度身に付けた性格を手放そうとしない。その方が都合がいいと信じてそういう思考を身につけてきたのだから、簡単に手放すことができないのだ。

 でも、大きな失敗は人を根本から自分を変えるきっかけになることがある。自分の非を認めないことで失敗を経験した人は、次からは自分の非を認めて訂正すればいいのだ。思い込みによって失敗した人は、次からは「自分は思い込みをしているのではなかろうか」と疑い物ごとを俯瞰的に見るように気をつけ、第三者に相談したりアドバイスを求めるなどすることで思考の偏りを修正することは可能だ。

 もちろん、自分がそういう意識を持たない限り自分を変えることはできないが、もし自分を変えることさえできれば、今までよりずっと心穏やかに生きられるに違いない。今までのやり方を続けるのは容易だが、それを180度変えるのはとても勇気がいる。しかし勇気を持たない限り、同じ失敗を繰り返し不幸の悪循環に嵌ってしまう。

 さて、政治の世界でも自分の非を決して認めない人がいる。いうまでもなくその筆頭は安倍首相だ。そして安倍首相は間違いなく前者のタイプ(非を知りながら認めない)だ。森友学園、加計学園をめぐる疑惑を何が何でも誤魔化そうとして躍起になっている。安倍首相を擁護する取り巻きの人たちは、安倍首相の非を知りながらも自己保身のために彼を支え続けてしまう。数の力、権力によって存続しているのが安倍政権の実態だ。

 嘘と誤魔化しと権力で強引に保っている政権は、いつか国民に愛想をつかされるだろう。信頼を失った政権はやがて崩壊する。崩壊する前に何としてでも憲法改悪をするというのが今の安倍首相の考えているころだろう。できるだけ早く憲法を変え、国民から基本的人権や表現の自由を奪って独裁体制をつくりあげることが安倍首相の悲願に違いない。

 これを防ぐためには国民が「バカの壁」状態になってはならないということだ。安倍首相の目的を見抜き、アベノミクスの嘘を見抜き、改憲にノ―を突きつけるしかない。

2017年12月16日 (土)

破局噴火と原発

 12月13日に、広島高裁は四国電力伊方原発3号機の運転差し止めを命じる決定をした。原子力規制委員会の策定した「火山影響評価ガイド」では原発から160キロ内にある火山を対象に、火山活動の可能性や噴火規模を推定し、原発稼働時の安全性を評価するように定めている。推定できない場合は、過去最大の噴火規模に照らし火砕流などの影響を評価するように確認している。

 伊方原発は熊本県阿蘇カルデラから約130キロに位置しているので、「火山影響評価ガイド」に従って火山活動の可能性や噴火規模を推定しなければならない。高裁は、阿蘇カルデラの約9万年前の破局噴火による火砕流に言及して、立地に適さないとした。今回の決定は「画期的」「歴史的判決」などと評価されているが、火山影響評価ガイドに照らし合わせたごく当然の判断だろう。この当然の判決が「画期的」ということは、今までの原発訴訟がいかに科学をないがしろにしたものだったかを物語っている。

 川内原発の火山影響評価で九州電力および規制委が「運用期間中(核燃料が存在する期間)に、設計対応不可能な火山事象によって、本発電所の安全性に影響を及ぼす可能性について十分小さい」と判断してしまったことの方が妥当性を欠く。これは科学を無視した「再稼働ありき」の結論だ。

 今回の広島高裁の決定に対し、ツイッターなどでは、阿蘇カルデラの破局的噴火を想定するなら原発より九州が壊滅状態になることの方が重大事だという意見が散見されて驚いた。

 確かに破局噴火が起きれば、九州どころか日本が壊滅状態になりかねない。具体的にどんな状態になるのか。神戸大学海洋底探査センター巽好幸教授の記事が参考になる。

最悪の場合、日本喪失を招く巨大カルデラ噴火 

 「巨大カルデラ噴火」「破局噴火」などと呼ばれる大規模噴火で直近のものは7300年前の喜界カルデラ噴火だが、この噴火は南九州の縄文人を絶滅させ、火山灰は東北地方にまで達したという。そして巨大カルデラ噴火は今後100年間に約1%の確率で発生するとされている。早い話し、いつ起きてもおかしくないということになる。2万9000年前に鹿児島湾を作った姶良カルデラ噴火を参考に、九州中部で巨大カルデラ噴火が起きたと想定するとどうなるか。

数百℃の高温の火砕流は2時間以内に九州のほぼ全域を焼き尽くし、関西では50センチメートル、首都圏は20センチメートル、そして東北地方でも10センチメートルの火山灰が降り積もる。ここで重要なことは、10センチメートル以上の降灰域では、現在のインフラシステム(電気・水道・ガス・交通など)は全てストップすることだ。つまり、この領域に暮らす1億2000万人の日常は破綻する。しかもこの状況下での救援活動は絶望的である。

 ここまでの規模にならないとしても、九州の部分的な壊滅はあり得るし、偏西風によって火山灰が四国や本州に流されることを考えれば、被害面積は相当なものになるだろう。農地は火山灰に覆われ、日照も妨げられるから食糧危機にもなる。果たして日本人がどれだけ生き残れるかという状況になるかもしれない。

 巨大カルデラ噴火そのものだけでも大変なことになるが、火砕流が原発を襲ったらどうなるのか? 「川内原発を襲う、カルデラ噴火【日本壊滅のシナリオ】」という記事ではこんなことが指摘されている。

「数百度の熱を帯びた火砕流が川内原発敷地内まで到達する可能性があります。そうなれば、原発自体が破壊されるのはもちろんのこと、原発作業員も全員火砕流でやられてしまいます。火砕流と放射能で、外部から救助にも原発の収束作業にも入れないという恐ろしい事態になってしまうのです」

「噴火に伴う原発事故の場合、火山灰に放射性物質がくっついて、風に乗って全国に降り注ぐことになります。しかもカルデラ破局噴火の場合、日本最大の地上の火山である富士山と同じくらいの体積の降下物が飛散します。それだけの降下物が放射能を伴って日本中に降り注ぐ可能性を考えないといけません」

 手のつけられなくなった原発がメルトダウンし暴走を始めるのは目に見えている。福島第一原発の事故では格納容器が破損したものの形は留めており作業員が懸命に被害の拡大を防いだ。しかし、高熱の火砕流が襲ったら格納容器も燃料プールも破壊されて大量の放射能をばら撒くだろう。そして、とめどなく放出される放射能が火山灰とともに偏西風に乗って日本中に拡散され続けるのだ。飛行機も飛べないし、なす術がない。福島の事故とは比べ物にならないような汚染が広がるだろう。

 九州には巨大カルデラが複数あり、160キロ以内に川内原発、玄海原発、伊方原発がある。これらの原発が1基メルトダウンしただけでも恐ろしいが、同時に複数の原発が破壊されることもあり得る。それだけではない。日本中に火山灰が降り注ぎインフラシステムがダウンしたら日本列島の他の原発も制御できなくなる可能性がある。考えただけでも恐ろしいが、日本列島は死の島になるだろうし世界中が深刻な放射能汚染にさらされるだろう。

 いつかは分からないが破局噴火は必ず起きる。これまでは地震や噴火の静穏期にあったが、今は活動期に入ってきていると言われている。とするなら、破局噴火の時期はそう遠くないかもしれない。そのときに原発が巻き込まれるか否かで難を逃れて生き残った人たちへの影響が大きく異なってくることは間違いない。

 利己的な人間は、しばし自分の生きている時代のことしか考えない。自分が生きているうちには破局噴火などないだろうと他人事のように考えている人が大半だと思う。だからこそ地震大国・火山大国である日本に54基もの原発建てられてきた。しかし、2011年にマグニチュード9という超巨大地震が日本を襲い、福島第一原発は3基もの原子炉がメルトダウンし、今も収束の目途は立っていない。私自身、生きている間にこんな巨大地震が日本を襲うなどとは考えたこともなかったが、それがいかに甘い考えだったかを痛感した。

 プレートの縁に位置する日本では、巨大地震や巨大津波、巨大噴火がいつ起きてもおかしくない。そして、その度に原発事故に怯えなければならない。もはや原発がなければ電気が足りないなどという主張が幻想であることははっきりしている。それにも関わらず原発にしがみつき、国土のみならず世界中を放射能汚染させてしまうのなら、あまりに利己的で無責任というほかない。  

人類はいつか必ず起きる破局噴火を防ぐことはできない。ならば、自然災害に伴って世界中に放射能をばら撒く愚かなことだけは何としてでも防がなければならない。そのためには一日でも早く原発を停止して廃炉にするしかない。あとは(破局噴火は手に負えないとしても)できる限り大噴火の予知に努め、被害を最小限に食い止める工夫と努力をするしかないだろう。

2017年11月27日 (月)

福島の原発事故による被ばくで健康被害は生じないと断定できるのか?(追記あり)

 ここ数日、映画監督の想田和弘さんが早野龍五氏の姿勢を批判したことで想田さんに対する攻撃が続いている。私も「福島の原発事故による被ばくで健康被害は生じない」と断定的な発言をしている菊池誠氏などに対する批判的なツイートをしたのだが、菊池誠氏や早野龍五氏らの批判をすると攻撃的なツイートが湧いてきた。まるでネット右翼の様相だ。

 私の言いたいことの要点は以下。

 福島の原発事故後には体調に異変を来たしたなどの報告が多数あったし、福島県で行われた小児の大規模な甲状腺検査では多数の甲状腺がんが確認された。福島の原発事故よる被ばくと健康被害の因果関係については現時点では明確に否定できる状況ではなく、「健康被害は生じない」と断言するのは科学的な態度ではない。

 私のツイートにムキになって揚げ足取りのいちゃもんをつけてきた人が何人もいた。自分の身分も示さず匿名でいちゃもんをつける人にいちいち返信するつもりはないが、ここでは、現時点で「福島の原発事故による被ばくで健康被害は生じない」などと断定できる状況ではないと考える理由についてまとめておきたい。

過剰診断説について
 健康被害は生じないと主張する人たちは、福島の場合、検査によって放置しても問題のない癌を見つけているだけで、多発ではなく多発見だと主張する。その根拠として持ち出すのが韓国での成人の甲状腺検査のデータだ。これに関しては国立遺伝学研究所の川上浩一教授が以下のように指摘している。

 福島の小児の甲状腺検査によるがんの多発に関し、検査によって問題のない良性のがんが発見された可能性があることは否定しない。超音波診断の専門家である筑波メディカルセンター病院乳腺科の植野映氏は、超音波検査では微小甲状腺癌が多数発見されることを指摘している。また「福島県外でのスクリーニングは論外である。これは香川の武部晃司先生(たけべ乳腺外科クリニック)も述べているが,彼は私と同じく,超音波による甲状腺癌のover surgeryを唱えており,小児でも同じであると警鐘を鳴らしてきた」と書いている(https://togetter.com/li/900034 参照)。ただし、成人と小児でスクリーニング効果が同じであるとするデータは示されていない。

 福島の小児の甲状腺がんで重視しなければならないのは、転移をするような悪性のがんの発症率や、がんの進行速度であろう。これに関しては、手術を行った鈴木真一氏が「過剰診療という言葉を使われたが、とらなくても良いものはとっていない。手術しているケースは過剰治療ではない」と主張しているし、手術している子どもにリンパ節転移をはじめとして深刻なケースが多数あることが分かっている(リンパ節転移が多数=福島の甲状腺がん 参照)。放置しても問題がない良性のがんが検査で見つかっているだけであるなら、なぜ転移もしていて手術が必要な深刻ながんが多数見つかるのだろう。

 私はテレビを見ていないのだが、昨日はNHKのBSスペシャルで「原発事故7年目 甲状腺検査はいま」という番組が放送された。この放送を見た方がこんなツイートしている。

 1巡目で発見されないのに2巡目で悪性腫瘍が見つかった子どもが60数名もいたのであれば、がんの進行が非常に速いということではなかろうか。

 なお、福島とチェルノブイリで甲状腺被ばく量を比較すると、福島の場合は圧倒的に被ばく線量が小さいので、福島での甲状腺がんの多発は放射線の影響とは考えにくいという意見がある。しかし、staudy2007氏の「見捨てられた初期被曝」(岩波書店)では、福島では事故直後に速やかに被ばく量検査が行われなかったために被ばく量の推計を著しく困難にしてしまったこと、3月26日から30日にかけて1080人の小児に対して行われた甲状腺被ばく調査は過小評価であることが指摘されている。

 被ばくと健康被害の因果関係を証明するのはきわめて困難であり、数十年にわたる疫学調査が必要だ。チェルノブイリの原発事故でもスクリーニング効果があることは分かっており、甲状腺癌と被ばくの関係について決定的なエビデンスを得るまでに約20年かかっている(チェルノブイリ甲状腺がんの歴史と教訓 参照)。

 福島の場合も、現時点で「被ばくによる健康被害はない」などと断言できる状況ではないと思う。

ホットパーティクルに関する最新の知見について
 私は原発事故による人工放射能の問題について、「科学と認識」というさつきさんのブログをしばしば参照し、紹介もしている。さつきさんは大学の教員であり、放射線に関して専門的知識がある方だ。とりわけさつきさんが今年8月に紹介している福島の事故で放出されたホットパーティクルに関する論文は興味深い。その概要とさつきさんのコメントは以下だ。

放射性セシウム微粒子についての最新の研究論文の紹介(その1) 
放射性セシウム微粒子についての最新の研究論文の紹介(その2) 
放射性セシウム微粒子についての最新の研究論文紹介(コメント) 

 私は専門的なことは分からないが、さつきさんは「コメント」で重要な指摘をしている。その部分を引用したい。

 ポイントは、この論文の要旨で「CsMP は、放出された放射性核種のうち体内に吸引摂取され得る形態のものを運搬する重要な媒体であった」と指摘されている点であり、また、イントロに書かれている「難容性の CsMP は、東京に最初に降下した Ce の主要なキャリアとして認定された」も重要である。(中略)

 核兵器の爆発の場合は、その破壊力に比べて実際の核分裂生成物の量は原発よりはるかに少ないし、メルトダウンに引き続く、コアーコンクリート反応のような、比較的ゆっくりとした反応が進行する時間的余裕もない。実際、大気圏内核実験によるグローバルフォールアウトの人工核種をトレーサーとした海洋の三次元的海水循環の研究(例えば、Eigle et al., 2017 )を参照すると、採水測定によって得られた鉛直方向の拡散速度は、粒子として沈降した成分の存在を否定しており、大部分が海水に溶けていると模擬することでうまく説明できるという。

 チェルノブイリはどうか。これは黒鉛炉であり、メルトダウン時に還元的な雰囲気になった筈で、この点で軽水炉である福一とは反応環境が大きく異なっていたであろう。チェルノブイリ周辺でこのような放射性微粒子を探す努力がどの程度なされたか知らないが、ATOMICA に記載されているチェルノブイリで見つかった粒子は、本来のホットパーティクルの概念とは異なる性質のものである。もしかしたら、福一から放出された放射性物質の主成分が CsMP であったことは、地球上に本格的な多細胞生物が出現したおよそ6億年前以降、生命が初めて直面する種類の脅威であるのかもしれない。

 福島の原発事故で放出されたホットパーティクルは、核実験によって放出された放射性物質ともチェルノブイリの原発事故で放出された放射性物質とも形状が異なるそうだ。そして、3月15日に東京にまで流され降下したホットパーティクルは「体内に吸引摂取されえる形態のものを運搬する重要な媒体」であるという。

 また、さつきさんはICRPの被ばく線量評価に最高を迫る最先端研究を無視するサイエンスライターで、上記の論文の著者のお一人が書かれた健康影響についての予察を引用して紹介している。福島の小児の甲状腺がんを含め、健康被害について考える上でも重要な指摘だ。

 こうした新知見が提示されているのだから、内部被ばくの人体への影響に関しては福島とチェルノブイリを単純に比較できないのではなかろうか。ホットパーティクルの健康への影響については分かっていないことも多く、この点を考慮せずに「健康への影響はない」などと断言するのは安易と考えざるを得ない。

「断定できない」について
 私が「福島の原発事故による被ばくで健康被害は生じない」とは断定できない、と書いたら、「UNSCEARの報告を信用しないのか」という批判がきた。これについては以下のツイートを貼っておく。

 「断定」に関しては、悪しき相対主義 を読めという意見もあった。

 私は今までに公表された情報や専門家の指摘から、「エビデンスを得るためには長期間にわたる調査が必要であり現時点で安易に断定するべきではない」という立場で意見を述べているにすぎない。この記事で指摘しているような相対主義的な考え方を推し進めているわけではない。私が批判しているのは菊池誠氏や早野龍五氏といった大学教授であり科学者だ。彼らはその立場から社会に与える影響がきわめて大きいゆえ、発言には慎重さや正確性が求められると考えている。

最後に
 原発は「トイレのないマンション」と言われるように核廃棄物の処理技術すら確立されていない未完成の技術といえる。現時点では原発事故を完全に防ぐこともできないし、環境中に放出された放射性物質を回収することもできない。福島第一原発では融け落ちた核燃料も手をつけられず、放射性物質は未だに海へ大気へと垂れ流しが続いている。原発こそニセ科学といえるものではなかろうか。

 私は菊池誠氏や早野龍五氏にはこうした原発の問題点についてご自身の意見を明らかにしてほしいと思っている。

 原発が国策として推進され、安全神話という嘘が振りまかれてきた以上、原発問題は政治とは切り離せない。したがって、原発についての意見を述べることは政治的姿勢と関わらざるを得ない。しかし、被ばくに関する意見を発信して注目を浴びている科学者である以上、原発に対する自らの意見、立ち位置を明らかにする責任があるのではなかろうか。

 今回の想田さんへの攻撃や私への攻撃は、いわゆるネット右翼と呼ばれる人たちの言動と何ら変わらない。私は原子力推進派がツイッターを利用し、菊池氏や早野氏などの安全発言をする科学者を擁護し、彼らを批判する人たちを攻撃することで情報操作をしているのではないかという疑念が払しょくできない。つまり、菊池氏や早野氏は原子力推進派に利用されていると感じている。

 彼らが御用学者ではないという立場であるなら、なおさら原発にまつわる問題に関し、科学者としての意見を明らかにすべきだと思う。

 なお、原発事故後の体調不良や健康被害の増加に関しては、以下の記事が客観的データとして信頼できると考えている。

東京電力原発事故、その恐るべき健康被害の全貌 ―Googleトレンドは嘘をつかない― ②データ編 

【11月29日追記】

林 衛氏が以下のツイートをしている。

 ここで引用している鈴木眞一「福島原発事故後の福島県小児甲状腺県信と小児甲状腺癌」(「医学のあゆみ」2017年3月4日号特集:甲状腺疾患のすべて)の内容は以下。

 一方では過剰診断治療が問題とされている。超音波検査の利益・不利益は当初から理解し、わが国の甲状腺専門家たちのコンセンサスを得たうえで抑圧的な検査基準を設定している。すなわち著者らは、検診をはじめる際にも超音波を検診に用いると多数例がみつかることを想定し、二次検査での精査基準を設けた。5mm以下は細胞診をしないで経過観察。5.1mmは甲状腺結節の超音波診断基準の悪性7項目のほとんどが合致する場合は細胞診を、それ胃倍は経過観察としている。10.1~20mmでは同じ診断基準悪性7項目のうち、1項目でも悪性を疑う場合やドブラ法で貫通血管が認められる場合に細胞診をする。20.1mm以上では前例細胞診を施行することとして腫瘍径とエコー所見で性弁をかけ過剰診断にならないように努めている。ATAのガイドラインでも10mm以下は細胞診をしないとされているが、悪政を疑う場合は別であり、同様の対応を明確にしているものである。また、非手術的経過観察には進められない画像をLeboulleuxらは提示しているが、著者らの精査基準と同様であり、今回の手術された微小癌のほとんどが湿潤型で被膜外湿潤、リンパ節転移も高率であった。このように、抑制的にしているにもかかわらずアメリカ・韓国の過剰診断論から同様に問題とする方がいる。

 鈴木氏によれば超音波の検診ではスクリーニング効果があることを認識しており、福島の検診では過剰診断にならないよう基準をつくって抑制したとのこと。したがってアメリカ・韓国の過剰診断論をそのまま当てはめられないことが分かる。過剰診断にならないよう抑制的にしてもリンパ節に転移しているなど手術を必要とする事例が多数あったのだから、今後はその原因が問われることになるだろう。

2017年11月16日 (木)

賠償金の踏み倒しは防げるのか

 「弁護士ドットコム」というサイトにこんな記事が掲載されている。

ひろゆき氏の方法はもう終わり? 賠償金「踏み倒し」撲滅へ、法制度見直し議論 

 民事訴訟で賠償金の支払い命令が出た場合、判決に従って賠償金を支払うというのは自分の行いに責任をとるという意味で当然のことだ。裁判所の命令に従わないということは法に従わないということであり、無法者といっていいだろう。ところが、ときどき支払わずに踏み倒してしまう人がいる。代表的なのが元2ちゃんねる管理人の西村博之氏だろう。彼の場合、資産があるにも関わらず踏み倒していると言われているから悪質だ。

 なぜこんなことができるのかは記事で説明されているが、現在の法律では債権者にとって債務者の財産の強制執行がとても困難だという現状がある。しかも支払わなくても刑事罰がない。踏み倒して10年たてば時効になってしまう。西村氏の場合は海外の金融機関に口座を持っていると言われており強制執行も簡単にはできない。そしてすでに時効がきているので債務はゼロだと豪語している。

 彼が2ちゃんねるの管理人を辞めたのは、ずっと支払い拒否を続けていたら賠償金が膨れ上がってくる一方だしそのうち法改正があるかもしれないしなので、管理人を辞めることで区切りをつけ、溜まった賠償金を時効に持ち込んでチャラにするという思惑があったのではなかろうか。刑事罰がないとはいえ、債務者は裁判で決まった賠償金を支払う責務があるのだから、無法者であることは確かだ。

 不法行為で民事訴訟を起こす者の多くは弁護士を雇い、裁判に費用と時間を費やす。それにも関わらず西村氏のような無法者がのさばっていたら何のために法律があり裁判があるのかということになってしまう。

 そして懸念されるのは西村氏の話しが有名であるがゆえに、この手法を真似する人がいるのではないかということだ。単に「払いたくない」「判決が納得できないから払わない」などという自分勝手な理由で支払わない人もいるだろう。このような無法者が溢れるようになれば、損害賠償訴訟が無意味になりかねない。そんなこともあって、法の抜け穴を塞ぐための検討がようやく始められたということなのだと思う。

 ただし、中には支払い能力がない人がいるのも事実だし、損害賠償によって人生が暗転してしまう人がいるのも事実だ。例えばかつて文芸社商法の批判をした冊子を配布した渡辺勝利氏は文芸社から名誉毀損と業務妨害で訴えられた裁判に敗訴してしまった。この裁判に関してはスラップだと私は考えているが、たとえ理不尽な裁判であっても確定した判決に従うというのが裁判に負けた者の責務だ。納得がいかなければ控訴せねばならないが、彼は控訴を断念した。

 ところが彼は別の裁判でも敗訴して高額の賠償金を抱えてしまった。困った彼は文芸社に頭を下げて賠償金の免除を求めたらしい。その後、彼は文芸社を擁護する側に回り、文芸社を批判していた私まで攻撃するようになった。あの気骨ある渡辺氏が賠償金が払えないゆえに文芸社に屈服せねばならないとはなんと哀れで惨いことかと思ったものだ。債務者と言えど、最低限度の生活は保証されており強制執行で身ぐるみはがされるということにはならないのだが、責任感の強い彼は支払い不能を理由に切り抜けることを良しとしなかったのかもしれない。

 ただし、債務者の支払い不能を理由に債権者が賠償金の受け取りを諦めねばならないというのもおかしな話だ。記事では払わない人の対策として賠償金を国が立て替え、国が直接加害者への取り立てを行うというノルウェーの事例も紹介されているが、債権者が泣き寝入りしないで済む仕組みも検討していくべきだろう。もっともそのためにマイナンバーを利用するという話しなら、賛同はしかねるが。

 現代はネット上に誹謗中傷、名誉毀損が溢れている。被害者がお金と時間をかけて加害者を特定し、さらにお金と時間をかけて裁判を起こしても踏み倒されたらたまらない。ネット上では無責任人間がのさばり、すでに加害者天国のような感がある。西村氏はおよそ30億もの賠償金を踏み倒したあげく時効がきたと開き直っているが、今回の見直しは遅すぎた感がある。

 いわゆるザル法は損害賠償問題に限らずいろいろなところにある。法治国家である以上、ザルの穴を塞ぐことは当然だろう。

2017年11月14日 (火)

頭髪や服装に関する校則は必要か

 少し前に大阪の府立高校の女子生徒が頭髪の黒染め強要で大阪府に対して損害賠償を求める裁判を起こしたことが話題になった。詳しくはこちらを参照。

 この学校では染髪や脱色を禁止しているという。染髪を禁止していながら、生まれながらの茶色い髪を黒染めにしろと強要するとは倒錯としか言いようがない。学校という教育現場で未だにこんな人権無視の強要が行われていることに驚愕する。そしてさらに驚くのは、大阪府の全面的に争うという姿勢だ。まともな人権感覚があるのなら、教師の非を全面的に認めて謝罪し慰謝料を支払うことで和解すると思うのだが。

 私は中学や高校の頃から身なりについて細々定めた校則は馬鹿げていると常々思っていた。女子は髪の毛が肩にかかったらゴムで縛りなさいとか、スカートの丈は膝下とか、パーマやカールは禁止とか、なぜそんな細かいことを規制するのだろうと不思議でならなかった。髪が長くなればたしかに煩わしくなるが、不便なのは本人なのだから自分で適宜対処すればいい話しだ。髪の毛の色が茶色であろうと、カールしていようがいまいが(生まれつきくせ毛の人だっている)、スカートが多少長かったり短かかったとしてもが学校生活には何の関係もない。

 もちろん人が社会生活を営むためには法律やルールは不可欠だし基本的には守るべきだ。しかし、立場が上の者が下の者を縛ることを目的にしたルールは独裁者が好むものでありとても危うい。また民主主義国家では、ルールは基本的人権を尊重したものでなければならない。中学や高校の校則の中で、頭髪や服装などの生活面に関するルールは生徒の権利を侵害してはいないだろうか。そして本当に必要なものなのだろうか?

 私は頭髪や服装に関しては本来自由であるべきだと思う。染髪は頭皮にも髪の毛にも悪影響があるし個人的には賛同できないが、だからといって禁止すべきものでもないと思う。禁止したところで、規則を守らない子どもはいるものだし、日頃は守っていても夏休みなどに染髪する子どももいる。染髪にしても化粧にしても必ずリスクがあるわけで、まずは学校でそうしたリスクをしっかりと教育するのが先決だろう。その上で、自由にさせればいいのではなかろうか。

 制服も必要だとは思わない。制服に関しては賛成意見が多いのは承知しいている。私服にしたら華美になる、お金がかかる、服を選ぶのが大変・・・などという意見も根強い。しかし、デメリットもいろいろある。たとえば、気温や天候の変化に対応しづらい、堅苦しく活動的ではない、簡単に洗えない、値段が高い、成長期の子どもに適さない、個性がないなど。

 「華美になる」というのは勝手にそう思い込んでいるということもあるし、他者からの評価を気にしすぎる日本人らしい感覚だと思う。小学校や大学などで果たしてそんなに華美になったり競争になったりしているだろうか? もちろん中にはブランド物を好んだり、服装に拘って毎日着替える人もいるだろうが、それはむしろ一部にすぎないと思う。現に、私服の高校で華美になっているという話しは聞かない。

 「お金がかかる」「服を選ぶのが大変」というのも、他者の目を気にして競争をしよう(あるいは皆と同じような服装にしなければならない)と考えるからだろう。「フランス人は10着しか服を持たない」という本がある。この著者は、「なぜフランス人は服を10着しか持たないのか? 本当の自分らしさをもたらす、小さなクローゼットのつくりかた」でこんなことを書いている。

同じ服を何度も何度も着るという考えですが、私たちはそれを少し恥ずかしい事だと思っています。たくさんの人や過去の私もそうでしたが、同じ服を1週間に2回も着たくはありません。特に同僚の前だったり、学校では他のお母さんたちの前では。

 これは私もすごく感じる。たとえば子どもがいる母親の場合、入学式や卒業式などが立て続けにあったりするが、その度に違う服を着て行く人がいる。これなど明らかに他者の目を気にしており「同じ服を何度も着ることが恥ずかしい」と思っているのだろう。しかし、一昔前、たとえば私の親が若かった頃などは持っている服も少なく、同じ服を繰り返して着ていたのではなかろうか。ところが戦後の高度成長で物が豊かになるに従ってすっかり感覚が変わってしまったのだと思う。

 本来、子どもは他人の目など気にしない。わが家では子どもが小さい頃、知人からいただいたお下がりの服が沢山あった。私が服を選んで着せようと思っても、子どもは自分の好きな服ばかりを着ていた。ところが小学生くらいになると、他人の目を気にしはじめる。そして皆と同じような格好をしたがるようになる。他者の評価を気にし始めるのだ。そして、「皆と同じ」でなければ悪口を言われたり冷やかされたりするのだと学んでしまう。もちろん子どもがそのように変わってしまうのは大人の価値観が大きく影響している。私たち大人が、日頃から自分の好きな服を身につけ、同じ服を着回すことが当たり前の生活をしていれば、子どももそれが当たり前だと思うに違いない。

 同じ服を繰り返して着ることに抵抗を持たなければ、沢山の服を持たなくてもいいしお金もさほどかからない。服選びに時間がかかることもない。制服であれば毎日同じ服でも平気なのに、私服だと同じ服を繰り返して着るのは恥ずかしいという感覚こそおかしいことに気づくべきではなかろうか。つまり「同じ服を繰り返し着るのが恥ずかしい」という意識さえ変えることができれば、制服のメリットはほとんどないと思う。そして、これは個人の意思でできることだ。

 21世紀になっても頭髪や服装を自由にさせたがらない日本の学校は、生徒を管理して従わせることしか考えていないのだろう。これでは生徒が主体性を持つことも難しい。というより、生徒が主体性を持たないように教育しているとしか思えない。

«日本人には全体主義が染み込んでいる

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