2017年8月15日 (火)

敗戦72年に思う

8月15日。また敗戦の日がめぐってきた。私は「終戦」とか「記念日」という気になれない。広島と長崎に原爆を投下され、310万人もの犠牲者を出してようやく「負け」を認めた。戦争とは凄惨な殺し合いであり、人類の最大の愚行であることを日本人はあの戦争で思い知ったのではなかったのか。

そしてつくづく思う。戦争とは支配であると。相対する者(国)が論理や話し合いではなく力で相手を支配しようとし、そのために権力者が国民を支配して戦争に動員する。国民を戦争に駆り出すためにマスコミが洗脳装置として利用される。戦争とは権力者による支配と騙しでつくられる。

いったいこの世の中に、自分と何の関係もない人を殺したり、あるいは自分が殺されることを望む人がいるだろうか? 毎日、死の恐怖に怯えて戦いたいと望む人がいるだろうか? 殺人を嫌う、命を慈しむ、平穏な暮らしを望むという当たり前の願いに右も左も関係ない。

ところが愚かな人類は、ひとたび自分の利益が絡むと簡単に権力者に服従し、言いなりになってしまう。愚かな人類は、権力者の巧みな言葉に容易に騙される。そして殺戮の世界でしかない戦争へと巻き込まれる。犠牲になるのはいつも騙される人たちだ。

安倍首相は今、改憲という自分の悲願達成のために国民を騙そうとしている。内閣人事局を設置して官僚を支配することで安倍一強体制をつくりだし、政権内に強力な支配体制を確立した。そして、秘密保護法、安保法制、共謀罪と強行採決。マイナンバー法も国民を監視し支配するための法律に他ならない。

こうして、私たちはじわじわと体に綱を巻きつけられている。アベノミクスで目くらましをし、不都合なことは隠蔽し、国民を監視して自由に物を言えない状態にし、マスコミによって情報統制をする。その上で改憲をして戦争をする国につくりかえる。それが安倍首相の考えていることだろう。

加計学園問題や自衛隊日報隠蔽問題への対応で安倍首相の支持率は低迷している。とは言うものの、一度つくりあげた支配体制は簡単には崩壊しない。一度つくられた法律を廃止することも容易ではない。野党第一党の民進党も混乱し、支持率は低迷している。厳しい状態と言わざるを得ない。

果たして、日本人はこの危機的状況から脱して平和を守り続けることができるのだろうか。真の民主主義国家をつくることができるのだろうか。国民ひとりひとりの主体性と精神的自立が問われているように思う。国家に騙されていたなら、戦争は再び繰り返されるし、犠牲になるのは国民だ。

(今日のツイートより)

2017年8月12日 (土)

菅野完氏の民事訴訟について思うこと

 8月8日に菅野完氏が被告となって争っていた裁判の判決があり、菅野氏の弁護士がこの裁判に関しての記事を公開した。以下がその記事である。

 菅野完氏の民事訴訟について(弁護士三浦義隆のブログ)

 裁判になっていることは菅野氏もツイッターで認めていたが、詳細については沈黙を貫いていたので分からないままだった。このブログ記事によってだいぶ状況が分かってきたので感想を記しておきたい。

 最初に断っておくが、私は性暴力は重大な人権侵害であり、加害者を擁護する気は毛頭ないという立場だ。菅野氏の件に関しても、紛争の原因をつくったのは彼にあるし、そのことで菅野氏を擁護する気はまったくない。彼は自分の行為に対して責任をとらねばならないし、社会的制裁を受けることも甘受せねばならないだろう。

 ところで何らかの被害が生じて紛争になった場合、問題解決(責任の取り方)としては賠償金や謝罪を求める方法と、刑事罰や行政処分など法に基づいた処罰を求める方法がある。被害者は片方だけ行う場合もあるし、両方行う場合もある。

 前者は話し合い、あるいは調停や裁判によって進められ賠償金で償うことになる。被害の回復といっても起きてしまったことをそれ以前の状態に戻すことは不可能なので、謝罪と賠償金で解決するしかない。

 後者に関しては、加害者の行為が違法行為に該当する場合、被害者が告訴して刑事罰を求めたり行政処分を求めることもできる。

 また、法律に基づかなくても懲戒処分の対象になる場合は処分を求めるということもあるだろう。社会的制裁である。公益目的にマスコミなどが事実を公開することも加害者にとっては社会的制裁になる。これらも加害者としては甘んじて受けなければならない。

 さて、三浦弁護士の説明によると、X氏は代理人弁護士を通じて内容証明郵便で菅野氏に200万円の慰謝料を請求したという。いきなり調停や裁判に出たわけではなく、話し合いによる解決を求めたと理解できる。今回の件に関しては菅野氏本人も事実であると認めていて争いがないし、菅野氏も被害者に謝罪し賠償金を支払うことで和解による解決を望んでいた。そして、X氏の要求してきた200万円の慰謝料も受け入れた。

 謝罪をし、被害者が求めた慰謝料の全額を払うというのだから、ここで和解が成立するのが通常の経過だ。ところが、X氏は菅野氏のツイッターアカウントの削除や女性の権利問題に関する言論活動の制限に拘って和解を蹴り、裁判に打って出た。

 常識的に考えて、事件と全く関係のない要求が裁判で通るとは思えない。しかも裁判になればさらなる弁護士費用がかかることになるし、賠償金額も要求額より減る可能性が高い(実際、判決では要求額の半額の110万円だった)。自分に不利になるとしか思えない裁判を選択するというのは、極めて異様で不可解な対応だ。三浦弁護士も「菅野氏に社会的制裁を加えること自体がX氏の目的なのではないか」と書いているが、第三者の目からもそうとしか思えない。

 賠償金での解決を図る民事訴訟で制裁をすることにはならない。したがってX氏が民事での解決だけでは気が済まないのなら、菅野氏を告訴して刑事事件にするか、事実の公表をするなど民事訴訟以外の方法をとる必要がある。ただし、刑事事件にはなっていないようだ。刑事事件にするほどの違法行為があったわけではないのだろう。そんな中でX氏がとったのは週刊金曜日での公表という社会的制裁だ。

 週刊金曜日は記事を書くにあたり、取材によってX氏の可解な訴訟での対応を把握できたはずだし、X氏が菅野氏の私的制裁に強い拘りを持っていることを察知できただろう。であれば、性被害の事実だけではなくX氏側の不可解な対応も報道しなければ公平性を欠く。

 被害者が報道機関を利用して事実を公表するなら、それはあくまでも公益目的で行うのが筋だと思うし、報道機関側もX氏の言い分だけを垂れ流して個人的恨みによる報復に加担するようなことがないよう十分に配慮する必要があると思う。菅野氏の裁判をめぐって私が疑問に思うのは、まさにこの点だ。

 ところが、記事では裁判の不可解な経緯についてまったく触れられておらず一方的に菅野氏を糾弾する内容になっているし、事実をねじ曲げた部分もあるようだ。しかも記事が掲載されたのは菅野氏や裁判所が和解による解決を模索している裁判の最中だ。

 菅野氏は反省文の公表をX氏から拒否された。さらに性トラブルの加害者であるがゆえに、二次加害を避けなければならない立場だ。また係争中の事案であることもあり週刊金曜日の記事に対して反論も釈明も行わなかった。言いかえるなら、X氏は菅野氏の弱みにつけこんで彼の謝罪や釈明を事実上封じた上で、週刊金曜日に自分の主張だけを流したと言えよう。係争中だから記事にしてはならないという決まりはないが、こうした経過を知ってしまうとX氏のやり方に卑劣さを感じざるを得ない。こうしたやり方は、社会的制裁を通り越した個人的な報復感情による仕返し、嫌がらせとしか感じられない。

 週刊金曜日としてはこうした経緯を把握したうえで、もっと慎重に対応すべきだったと思う。事実に争いはないのだから、裁判が終わってからの公表でもよかったのではないか。被害者が報復のために週刊金曜日を利用したとも捉えられるし、週刊金曜日が被害者の報復に加担したとも捉えられるが、両方だったのではないかと感じる。

 X氏が週刊金曜日の記事の拡散を自ら画策したことについては、某ブロガーの告発記事からも明らかだ。私はX氏に利用された某ブロガー(菅野氏とは関わりのない性被害者)が、非公開前提のツイッターのグループメッセージでのやりとりを公開し、X氏のツイッター名まで公開したのは行き過ぎた行為だと思っているので、ここでは某ブロガーの記事をリンクさせることはしない。しかし某ブロガーが公開したやりとりを読んで、X氏は私的制裁のために他者を利用する人物であると感じた。X氏の発言や第三者を利用した拡散工作にもX氏の強い報復意識を感じる。

 しかも、週刊金曜日の記事のゲラのPDFファイルに週刊金曜日側が「うんこ」という名称をつけたことや、X氏が菅野氏を「うんこ」と称していたことも明らかになっている。いくら非公開でのやりとりであっても、第三者である報道人が被害者に同調して加害者を侮蔑する感覚に驚きを禁じ得ない。

 この件では、週刊金曜日のステマ疑惑を主張している人もいるが、私はその意見には与しない。ステマというより被害者の報復行為への加担であり、嫌がらせに近いと思う。

 私はどのようなトラブルにおいても報復行為には賛同できない。第三者である報道機関が個人の感情に基づいた報復、すなわち仕返し行為に加担することもあってはならないと考えている。報道機関が批判記事を書くのであれば公益性こそ重視すべきだ。報復行為は憎しみの連鎖を生むだけで決して建設的な問題解決にはつながらないし、場合によっては墓穴を掘ることにもなる。

 とは言うものの、被害者自身が違法行為や不法行為を伴わないやり方で報復するならそれは自由だろう。もしX氏が菅野氏に仕返しをしたいならば、ブログなどを利用して被害者自身が発信者となって責任を負うのが筋ではなかろうか。公表時期に関しても、菅野氏側に釈明や反論の場を与えるために裁判が終わってからにするのが公平なやり方だと思う。

 私的制裁のために民事訴訟を利用したり、自分自身で矢面に立とうとせずに報道機関を利用したり、その記事の拡散に菅野氏とは何の関わりもない性被害者の女性を利用するというX氏のやり方は、嫌悪感しか抱かせない。一方で、X氏との闘争を避け沈黙を貫いた菅野氏の態度は評価できる。

 何度も書いていることだが、私は自分の利益(あるいは復讐)のために他人を利用する人が大嫌いだし、たとえ被害者であってもそのようなことをやっていいとは思わない。

2017年8月 4日 (金)

エピジェネティクスから見えてきた貢献感と健康

 先日、近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」という本を読んだのだが、近藤氏によると血圧もコレステロールも高い人ほど長生きするというデータがあるそうだ。日本では生活習慣病の予防として血圧やコレステロール値を下げることが大事だと盛んに喧伝されている。近藤氏の言うとおり、血圧やコレステロールが高い人の方が長生きする人が多いなら、高血圧や高コレステロールが生活習慣病の原因とは言い切れない。

 私はもともと検診に関心がないのだが、癌の発症に関してもエピジェネティクスが関わっていることを知って以来、精神的に健康な人ほど病気になりにくいのではないかと考えるようになった。環境が遺伝子のスイッチの切り替えに関わっているのなら、「精神の健康」「幸福感」という心理的環境も病気などのスイッチに関わっていても不思議ではない。それが事実なら、単に血圧やコレステロール値などに気をつけていれば病気のリスクを減らせるということにはならないし、近藤氏の主張も納得できる。

 実は、こうしたことを裏付ける研究がある。

環境と遺伝子の間:あなたのエピジェネティクスは常に変化している 

 この記事で私が特に興味深いと思ったのは、「深層心理が免疫細胞のエピジェネティクスに変化をもたらす」という指摘だ。重要な部分を以下に引用しよう。

この結果によると、強い孤独感は、心臓病、アルツハイマー病、関節炎など、炎症を伴う病気のリスクを上昇させ、さらにウイルス性の風邪などにかかりやすくなることを示唆している。面白いのは、「どれだけ社会から疎外されているか」という客観的な事実ではなく、「本人がどれだけ孤独を感じているか」という主観的な感情のほうが免疫細胞との関連性が強かったことだ。

 ここで言う孤独感とは、友人や知人との交流が少ないとか、一人暮らしをしているといった単純なことではなさそうだ。友人が少なくても、あるいは一人暮らしをしていても、本人が孤独を感じていないということもある。たとえば公益性のあることにこつこつと取り組んでいるとか、公益目的に情報を発信しているというような人は、孤独感はあまりないかもしれない。たとえ多くの人に囲まれて暮らしていても、周りの人から受け入れてもらえずに寂しさを感じていれば、たぶん孤独感が強いということなのだろう。自己中、あるいは独裁的な人ほど人と他者と深い信頼関係が築けず、孤独感が強いと言えるのかもしれない。

幸福の種類によって免疫細胞の遺伝子スイッチが変化するのはにわかに信じがたいが、コール博士らが研究で得た結果とはそういうものだ。物欲を満たすことや、おいしいものを食べるという行為で得られる短期で浅いHedonicな幸福では、免疫細胞が活性化するどころか孤独感を感じているのと同じようなエピゲノムのパターンが見られた。逆に社会に貢献することで人生に意味を見出すような、深い満足感を伴うEudaenomicな幸福感では、炎症反応に関連する遺伝子が抑えられ、抗ウイルス反応に関連する遺伝子はより活性化されていた。

 この結果は非常に興味深い。目先の欲求を満たすことで得られる快楽主義的、自己満足的な幸福感は、孤独感を感じている人と同じような変化を免疫細胞にもたらすというのだ。つまり、病気のリスクを高めるように働くという。

 これに対し、社会や他者に貢献したり、よりよい人間に成長するために挑戦することで得られる幸福感は、病気になるリスクを低下させるという。

 この結果に「真の幸福感」とは何かが示されていると思う。つまり、つまり物欲によって得られる快楽や自己満足による快楽は、真の幸福とは言えないのではないかということだ。ファッションや化粧で自分を飾ることで得られる満足感なども同じではないかと思う。自分の欲求が満たされればそのときは満足感があるだろうけれど、それはずっと続くわけではない。有名になったりお金持ちになれば必ず幸せになれるとは言えないのと同じだ。

 このような浅い幸福感は、元をただせば私利私欲や損得勘定からきている。自分の利益だけを求めるところに真の幸福感はないというのは、感覚的にも理解できる。

 これに対し、社会や他者に貢献することは、私利私欲や損得勘定とは無縁のものだし、利他行為といえよう。

 人類は集団をつくり、仲間と協力して生き延びてきた。狩りをするにも外敵から身を守るにも仲間との協力が必要だし、得られた食糧も集団内で均等に分けなければ集団生活はうまくいかない。子どもや高齢者などの弱者を守るのも集団生活をしてきた人類の特徴だ。集団内で独善的にふるまっていたら仲間から信頼されないし、うまくやっていけない。こうした共同体での協力関係こそ貢献感の源であり、人はそこに自ずと幸福を感じるのだと思う。だからこそ、利他行為は病気への耐性を高めるように進化してきたのではなかろうか。

 ここで言う「貢献感による幸福感」こそ、アドラーの唱える「共同体感覚」なのだろうと思う。また「孤独感」とは、「共同体に所属できていない」ということではなかろうか。このエピジェネティクスに関する研究は、アドラー心理学が正しいことを裏付けているように思える。

 近年は競争社会や格差の拡大によって、人々がいがみ合うようになったと実感している。他人と競争し相手を蹴落として優越感に浸ろうとしたり、復讐しようとする心理は、共同体感覚とは対極にある。他人を貶め叩くことで満足感を得ようとする行為も同様で、真の幸福感とは正反対のものだろう。このような心理状態の人は精神的に健康とは言えないし、決して幸福になれないばかりか病気のリスクを自ら高めているのかもしれない。

 怒り、イライラ、憎しみなどといった感情は、自分の意志にかかっている。怒ったりイライラしたり他者を憎んでも、目の前の問題を解決するためには何の役にも立たないどころか人間関係を悪化させるだけだ。そのことを理解すれば、怒りもイライラも憎しみも消えるし、感情的にならなければ冷静に問題解決方法を探ることができる。「真の幸福感」も「健康」も、自分自身が決めている部分が大きいのかもしれない。

2017年7月31日 (月)

今年の家庭菜園

 ブログをほったらかしていたら、もう7月も終わり。ということで、とり急ぎ今年の家庭菜園の様子をアップしておきたい。

 わが家の庭は以前は花卉園芸だけだったが、近年は蔬菜園芸に移行してきている。花の苗を育てるのが億劫になったとか、玄関周りに飾った花をシカが食べてしまうようになったということもあるが、野菜を作る楽しみを知ってしまうと止められない。

 今年は、リーフレタス、ルッコラ、ズッキーニ、ミニかぼちゃ、大根、スナップエンドウ、パセリ、人参の種を蒔いた。

 リーフレタスは毎日食べているが、生長の方が速くて食べきれない。P10801251


 大根(ミニ大根)も少しずつ時期をずらして種まきをしたのだけれど、こちらも食べるのが大変。しょっちゅう大根サラダを食べている。 P10801322

 スナップエンドウも毎日収穫して思う存分食べている。 P10801343

 ミニかぼちゃもどんどん伸びてきて、小さな実をつけはじめた。 P10801304

 ズッキーニは今年はじめて作ってみた。かぼちゃの仲間で、朝に花が咲き昼にはしぼんでしまう。雄花と雌花が同時に咲かないと実がつかないのだけれど、雄花だけしか咲かない日とか、雌花だけしか咲かない日もけっこうある。当たり前だが、受粉できないと、実は大きくならない。 P10801215

 こちらはひよこ豆(ガルバンゾ―)。暑さと雨に弱く日本では栽培が難しいと言われている。うまく栽培できるかどうかわからないので、試しに50粒ほど蒔いてみた。今年の猛暑も何とか耐え、7月下旬から白い小さな花をつけはじめた。はたしてどれ位収穫できるものか。 P10801266

 わが家の周りはエゾシカがうろついていて、家庭菜園を虎視眈々と狙っている。柵や網で囲わないと家庭菜園など到底楽しめないのだが、その網を口でくわえて引っ張ったり、くぐって中に入ろうとする。先日は出入口の網を支柱ごと倒されてしまった。シカは驚いて逃げたようで幸い食害はなかったが、入られたらけっこう悲惨なことになる。エゾシカの姿を見かけること自体が珍しかった頃には考えられなかったことだ。

2017年6月15日 (木)

民主主義が殺された日

 今朝、平成の治安維持法と言われる共謀罪が強行採決された。民主主義が殺されたこの日は忘れられない日になるだろう。あとは安倍首相の撤退と強行採決された数々の悪法の廃止を求めていくしかない。以下に今日の連続ツイートを貼り付けておく。

今の状況を見ていると「共謀罪が成立」というより「国会が死んだ」「民主主義が殺された」と言う方が的を射ていると思う。それほどにまで今国会はまともな答弁もできないまま、「禁じ手」まで使って自暴自棄というか破れかぶれで共謀罪強行採決に踏み切った。テロといっても何ら大げさではない。

安倍政権が多数決で共謀罪の強行採決をやることは、ずっと前から予想はついた。安倍首相のやり方は論理ではなく安倍1強という権力を盾にした政治の私物化だ。まさにエゴイズム、独裁そのものだ。そしてこれこそ安倍氏の本質だ。それを支えているのが良心を捨てた自民党議員であり公明党議員だ。

しかし残念ながらそれを見抜けずに自民党を支持して過半数の議席を持たせてしまったのはわれわれ国民であることも認めなければならない。この原点に立ち戻らずに自民党に政権を任せつづけたら、たとえ安倍首相が辞めたとしても悪政は変わらないだろう。良心を捨てた政治家に民主政治はできない。

私たちが忘れてはならないのは安倍首相と自民党が恐怖政治によって政治を私物化しているという事実だ。それが今国会でいっそう明確になった。安倍首相は国民の幸福などこれっぽっちも考えておらず、アベノミクスという虚構をかざして国民を騙し、自分の望む独裁国家をつくることに狂奔している。

こんな狂った政権を決して存続させてはならない。マスメディアが政権による圧力で死に体なら、一人一人がこの腐敗した独裁政治について語り伝えていくしかない。森友問題・加計問題で目が覚めつつある人はそれなりにいるだろう。自民党に疑問を抱く人を増やしていくしかないのではないか。

だから、森友御問題・加計問題の追及を緩めてはならない。安倍首相の政治の私物化をさらに白日の元に晒さなければならない。憲法を踏みにじり、政治を私物化し、国会をとことん愚弄したあげく民主主義を殺した安倍首相を辞任に追い込むべきではないか。

そして次の選挙で野党が過半数をとれれば安倍独裁政権が1強体制のもとで強行採決をした数々の悪法や共謀罪を廃止に追い込むことも可能だ。悪法廃止への道のりは決して平坦ではないが、それしかないように思う。

2017年5月24日 (水)

日本人は自民党が「立憲主義廃絶への一本道」を進んでいることを理解しているのか?

 今日(5月24日)の北海道新聞で、思想家の内田樹さんが「立憲主義 廃絶への一本道」と題して、半数以上の有権者が安倍政権を支持していることについて論じており、興味深く読んだ。東京新聞にも同じ記事が掲載されたようだ。

 内田氏は共謀罪が成立したなら、政府は市民が市民を監視し隣人を密告するシステム作るだろうと指摘している。監視社会をつくり市民が密告するシステムをつくれば、政府は労をせず政権に楯突く人物を共謀罪によって弾圧することができるだろう。まさに治安維持法の復活だ。

 内田氏は「私が特に興味を持つのは、特定秘密保護法、安保法制、共謀罪を経由してやがて改憲に至る文脈である。これは間違いなく立憲デモクラシーの廃絶と一党独裁をめざす一本道なのだが、なぜか『国民主権を廃絶する』と明言している政党に半数以上の有権者が賛成し続けている」と指摘したうえで、その理由について見解を述べている。

 内田氏の答えはこうだ。「戦後生まれの日本人は生まれてから一度も『主権者』であったことがない。家庭でも、学校でも、部活でも、就職先でも、社会改革を目指す組織においてさえ、常に上意下達の非民主的組織の中にいた」

 まさしくその通りだと思う。日本社会全体に蔓延しているのは「自分が損をしないように行動する」あるいは「自分が得をするように行動する」という意識ではなかろうか。つまり、「こうすべきだと思うからこういう行動をとる」のではなく、常に他者との競合関係の中で損得を基準に判断をすることが習慣になっているのが日本人なのだと思う。

 具体的に言うなら「嫌われないためにこうする」とか「評価してもらうためにこうする」という風に。だから個人の主体性というものがなく、常に他者の評価で自分の行動を決める。大人から子どもまでこうした判断の仕方が身にしみついているから、政治においても「主権者」の意識がないのだ。もっとも、これは裏返せば無責任ということでしかない。

 無責任といえば、福島の原発事故においても事故を起こした東電や、安全神話で国民を騙し国策として原発を押し進めてきた人たちは、事故から7年も経った今でも誰も責任をとっていない。福島の子ども達に甲状腺がんが多発しても、もはや報道すらろくにされない。結局、なにもかもうやむやにして再稼働することだけは必死だ。国民全体が無責任体質といえるのだろう。

 内田氏は、社会改革を目指す組織ですら上意下達だと指摘しているが、日本の組織では執行部にその他大勢が従っているだけの場合が多い。組織の構成員の大多数がリーダーや執行部におまかせなのだ。こういう組織は独裁的になりがちで、組織内部に上下関係が生じやすい。特に組織が大きくなるほど非民主的な組織になりがちだと私は捉えている。辺見庸氏なども組織に非常に批判的だが、私は「組織すること」が問題なのではなく、組織を構成する人たち個々の意識の問題ではないかと思っている。いずれにしても、社会改革を目指す組織が独裁的であれば、独裁政権とどう違うのかということになりかねない。

 内田氏はさらにこう指摘する。「日本の統治者のさらに上には米国がいる。米国の国益を損ない、不興を買った統治者はただちに『日本の支配者』の座を追われる。これは72年前から一度も変わったことのない日本の常識である。統治者の適否の判断において『米国は決して間違えない』という信ぴょうは多くの日本人に深く身体化している。それがおのれの基本的人権の放棄に同意する人たちが最後にすがりついている『合理的根拠』なのである」

 私には「自民党がやることに大きな間違いはない」あるいは「自民党以外には政治を任せられない」と本気で信じている人たちがそれなりにいるとしか思えないのだが、こうした思い込みが「米国は決して間違えない」という思い込みに通じているのではなかろうか。

 いずれにしても、日本人が主体性を持っていないが故に、安倍首相のような独裁者が現れたら容易に騙されてしまうのだろう。自民党を支持している人たちの多くは、自民党が「国民主権を廃絶する一本道」を歩んでいるという認識すらないのかもしれない。

 米国ではトランプ大統領の支持率はかなり低くなっているようだが、これは米国人の方が日本人より主体性があるということの表れだと思う。

2017年5月11日 (木)

原野の水仙

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 以前はゴールデンウィークの頃に道内のあちこちに野鳥などの調査ででかけた。この時期はクモの採集には早いが、キタコブシやエゾヤマザクラの花が咲き始めるし、芽吹き前の落葉広葉樹林の林床にはスプリング・エフェメラルと言われる早春の花々が可憐な花を咲かせている。民家の庭先には水仙やムスカリ、玉咲きサクラソウなどが咲き誇る。風はまだ冷たいものの、生き物たちの躍動を感じる季節だ。

 生物の調査が目的だから、行くところは人里からやや離れた山間地だったりする。そして、もはや原野としか言えないような荒地でしばしば目にするのが、目の覚めるような鮮やかな黄色い水仙の花だ。

 北海道の平野部には広大な耕作地が広がっている。そして、かつては「こんな所にも人が住んでいたのか?」と思うような山間地も開墾され畑や牧草地になっていた。たいていは川に沿って山間地へと耕作地が伸びている。人里離れた山間地にも、人々の生活があり、学校があった。人が住みつけば庭先に花を植える。学校を建てれば桜の木を植える。

 しかし、山間地ほど離農が進み、かつての耕作地はササや樹木に覆われて自然に戻りつつある。黄色い水仙は、かつてそこに人が住んで暮らしていたことの証だ。建物が撤去されても朽ち果てても、それらの植物は生き続けて毎年花を咲かせる。

 チューリップやムスカリはエゾシカの大好物だから、庭先に植えられていても食べられてしまう。しかし水仙は有毒植物だからエゾシカは食べない。かくして、人々が去ってからもしばらくの間、原野に黄色い水仙が生き続けることになる。ササや樹木にすっぽりと覆われでもしない限り、逞しく花をつける。

 40年ほど前の学生時代、探鳥旅行で北海道に何度かでかけた。当時の北海道は市街地から離れた辺鄙な場所でも、人が住んでいれば小さなお店(よろずや)と小学校や小中学校があった。否、辺鄙な場所だからこそ商店や学校があったのだ。バスに乗って景色を眺めていると、農耕地の中にぽつんと佇む小学校をよく見かけ何かほのぼのとしたものを感じた。しかし、今では過疎化が進んで小規模小学校は次々と姿を消し、農村地帯に住む子ども達はスクールバスで街の学校に通うようになってきている。

 廃校となった学校跡地は次第に草木に覆われ、古びた門柱と桜や水仙だけがかつての面影を偲ばせている。時代の流れとはいえ、寂しいものを感じずにはいられない。

2017年4月30日 (日)

化学物質過敏症は炭鉱のカナリア

 わが家では、洗剤は基本的に無添加の固形せっけんと粉せっけん。あとは掃除や洗濯に重曹を使う。これらがあればほとんどの汚れに対応できる。髪を洗うときも固形せっけんを使うし、セーターもせっけんで洗う。

 もともとは環境問題のことがきっかけでせっけんを使いはじめたのだが、洗剤類に含まれる香料にどんどん過敏になってしまったこともあり、香料入りの固形せっけんも使わない。香料の匂いで気持ちが悪くなったり頭が痛くなったりするのだ。それだけではない。化粧品や整髪料、ワックス、塗料類、たばこなどの匂いに対しても同じような症状がでるようになった。どうやら化学物質過敏症のようだ。さらに、化学物質とは言えないニンニクの匂いもダメになってしまった。

 子どもの頃は、匂いに対して特別に敏感だったという記憶はない。化粧せっけんの匂いも、シャンプーの匂いもさほど気にはならなかった。

 私が強い匂いが苦手だと気づいたのは東京に住んでいた20代の前半のことだ。当時、日本フィルハーモニー協会合唱団に参加していた。日本フィルハーモニー交響楽団ではオーケストラ付合唱曲の演奏に合わせて一般の人たちから合唱団の団員を募集していた(今でも続いているらしい)。私は友人と出かけた演奏会で団員募集のチラシをもらい、団員に応募した。週1回の練習を重ねて本番の演奏会で解散となる合唱団なのだが、その演奏会のときに化粧品の匂いで気分が悪くなってしまったのだ。

 演奏会では合唱団員はオーケストラの後ろにぎっしりと詰めて並ぶのだが、舞台は人々の体温とライトの熱気、そして化粧品の匂いが充満する。この匂いがかなり強烈で次第に気分が悪くなり、途中で舞台の袖に引っ込んで休ませてもらったことがあった。他の人たちは平気なのに、なぜ私はこんなに気持ちが悪くなってしまうのだろうという疑問が頭の中で渦巻いた。そして、自分が化粧品の匂いに人一倍過敏であることに気がついた。

 私はほとんど化粧をしないのだが、それからというもの冠婚葬祭などでごくたまに化粧をして車に乗ったとき、自分の化粧品の匂いで気分が悪くなった。自家用車の狭い車内で匂いがこもるとひどく気分が悪くなる。同乗者がたばこを吸っても同じで、窓を開けないと耐えがたい。ところが他の人はそうでもないらしい。その時には化学物質過敏症であるということは知らなかったが、最近になって自分が過敏症であることを認識した。

 化学物質過敏症という以上は天然の匂いは大丈夫かといえば、必ずしもそうではない。北海道ではおなじみの山菜であるギョウシャニンニクを採って車に持ち込んだときも、吐き気に襲われるようになった。ギョウジャニンニクの匂いはニンニクよりさらに強烈だ。北海道では戸外でバーベキューと言えばジンギスカンが定番なのだが、これにしばしばギョウジャニンニクを入れる。はじめのうちは私も少しくらいは食べることができた。ところが、食べたあとがいけない。自分の吐く息の匂いで気持ちが悪くなるのだ。以降、ギョウジャニンニクは食べないようにしているのだが、家族が食べ、夜中に息の匂いで気持ちが悪くなって耐えられなくなり、布団をもって別の部屋に逃げだしたこともある。そんなこともあってニンニク臭も過剰反応するようになってしまった。

 ワックスがけなども同じで、ワックスをかけた後はしばらく窓を開け放していないと頭が痛くなってたまらない。そんなわけで、今では香料と無縁の生活をしている。料理にもニンニクは使わない。

 先日、北海道新聞に化学物質過敏症の記事が何回か掲載されたのだが、私と同じような人は一定程度いるらしい。なるほどと思った。発症のメカニズムはよくわかっていないらしいが、花粉アレルギーなどと同様に、一定の限界を超える化学物質を取り込んでしまうことが関係しているらしい。

 私は若い頃から化粧はほとんどしなかったので、なぜ化粧品の香料で過敏症になったのか分からない。職場ではタバコの匂いがかなり苦痛だったが、父がタバコを吸っていたことが関係しているのかもしれない。昨今は乗り物は原則として禁煙になったのでとても助かっているが、飛行機やバスなどで化粧品や整髪料の匂いが強い人が近くにいるとかなり辛い。

 ところで、私のような過敏症の人は生まれ持った体質が関係しているのではないかと思えて仕方ない。たとえば、ハイリー・センシティブ・パーソン(HSP)という気質の人が知られているが、この気質の特徴の一つに、強い匂いなどの刺激に対して敏感であることが挙げられている。特定の物質に対する感受性が高いのだ。HSPの人は人口の約15~20%に見られるとされており、5、6人に一人はHSPだ。私は自己診断テストでは明瞭なHSPというほどではないが、傾向は比較的強い。子どもの頃に診断テストをやっていたら、間違いなくHSPに該当したと思う。

 ときどき体感で地震の前兆をキャッチする人がいるが、彼らの多くもHSPなのではないかという気がしている。て電磁波過敏症なども同じだろう。低周波音で体調が悪くなる人もそうかもしれない。私は地震の体感者でも電磁波過敏症でも(多分)ないが、匂いに対してはどうもかなり過敏な体質のようだ。

 過敏症は化学物質や電磁波が溢れるようになった現代の病だ。自然界にはない化学物質が人間にとってマイナスに働くことはあっても、プラスに作用することは考えられない。化学物質過敏症は、ある意味「炭鉱のカナリア」なのだ。

 現代社会は化学物質まみれだし携帯電話やWiFiの普及で日常的に電磁波にさらされる。5、60年前には考えられなかった状況になっている。過敏症の人は増え続けるだろう。化学物質過敏症は人類に警告を発しているのだと思う。

2017年4月27日 (木)

「共謀罪」の内容を知らないで賛成する恐ろしさ

 今日の北海道新聞に、『共謀罪内容「知らない」半数 全道世論調査 賛成48%、反対45%』という記事が掲載されていた。

 この調査によると、共謀罪について知らないという人が半数もいるという。ちょっとでも政治に関心を持っている人なら、共謀罪が現代の治安維持法と言われているほど問題だらけの恐ろしい法律であり、過去に3回も廃案になっていることくらい知っているだろう。

 それが今の国会で「テロ等準備罪」と名前を変えて提出され、安倍首相はいつものごとく成立に向けて邁進している。それにも関わらず「内容を知らない」人が半数もおり、30代以下では70%もが知らないというのだから驚きを禁じ得ない。しかも、知らないという人の方が賛成している人の割合が高いという。恐らくこのような人は「テロ対策」だと信じ、政府のやることに疑問を抱いていないのだろう。しかし、中身も知らないで賛成か反対かを判断してしまうということこそ恐ろしい。

 北海道新聞でも共謀罪の問題点についてはかなり力を入れて報道しているし、週刊誌などでも報じられている。今や、大半の人がインターネットを利用しているのであり、共謀罪について知ろうと思えばいくらでも知ることができる。それにも関わらず、「中身を知らないけれど賛成」という人が多いというのは、政治に関心がないということに他ならない。政治は政治家に任せておけばいいと思っているのかも知れないが、民主主義というものを全く理解していないに等しい。

 若者の政治離れは今に始まったことではない。若い人たちの間では「政治の話しをするのはウザい」というような雰囲気があるのではないかと思う。私の若い頃もそうだったけれど、日本の若者達は政治の話しを好まないどころか敬遠する。

 それでも、私が若い頃は社会的な活動に参加している人たちは一定程度いた。私も自然保護運動に関わってきたが、自然保護運動は熟年者だけではなく20代、30代の若い人たちによって支えられていた。ところが、今、自然保護運動に関わっている人たちの大半は高齢者だ。つまり、かつての若者がずっと続けているのであって、次世代がまったくと言っていいほど育っていない。恐らく、これは全国どこでも同じ傾向だと思う。

 だから、シールズの出現は大きなインパクトがあったが、彼らのような若者は全体からみればやはり少数派だ。そして、彼らを叩く人が溢れている。自分の意見を主張することすら叩かれてしまう、恐るべき国になっている。

 社会問題に目を向けようとしない若者が当たり前になり、共謀罪の中身も知らずに賛成してしまう。これはあまりに深刻な事態だ。この背景には、政治に無関心な若者をつくってきた大人たちの責任も大きい。

 たとえば、中学や高校に入れば多くの生徒は朝から夕方まで部活動に追われる。そして進学のための受験競争。社会のことについて考えるような時間的余裕はない。しかも、学校では嫌われないよう、いじめられないようにとSNSでの繋がりを求め、人間関係で神経をすり減らすような毎日。政治に目を向けるような精神的余裕もない。大学生になればアルバイトや就職活動に追われるし、就職先では長時間労働やパワハラがつきまとう。

 競争に追われ、自由時間を奪われ、人間関係で精神的に疲弊し、政治や社会問題に関心を持てるような状況ではない。大半の大人や子どもが「波風を立てない生き方」が良いと思い込み、事なかれ主義だ。部活、受験競争、SNS、就活、長時間労働、事なかれ主義・・・どれも大人たちが作りだしてきたものではないか。要は、「考えない人間」「事なかれ主義の無責任な人間」をつくりだしてきたのだ。そしてこの政治への無関心が、選挙にも行かない人たちを生みだしているのではなかろうか。

 共謀罪に賛成する人が、政府の「テロ対策」という口実を信じ、戦後の政治の大半を担ってきた自民党が国民に不利益な法律をつくることはなかろうと本気で思っているのなら、まさに政治を牛耳ってきた自民党の企ては成功したと言っていい。

 共謀罪のことを知らない人に知ってもらいたい。共謀罪とは、実際に実行しなくても二人以上の人が犯罪行為の相談をしたり計画をたてるだけで犯罪になるという法律だ。「考える」という行為が犯罪になりかねない。そして、その対象となる犯罪の範囲がとてつもなく広い。先日も話題になったが、森林法違反に該当するきのこ採りも対象になるし、著作権法違反も対象になる。テロとはおよそ関係がない違法行為について、二人以上で相談をしただけで犯罪になり得る。

 こういう法律がまかり通れば、市民が疑心暗鬼になり、周りの人の顔色を伺い監視をすることになりかねない。気に入らない人を密告する人も出てくるだろう。国民が委縮し、本音を語ることも怖れるようになるのではないか。考えただけでもぞっとする。

 一方で、公職選挙法、政治資金規正法、政党助成法などはすべて対象犯罪から除外されている。公文書電磁的記録の毀棄罪も除外、警察などの特別公務員職権濫用罪、暴行陵額罪も除外、と、政治家、官僚、警察などの公権力を私物化するような違法行為はことごとく除外されている。

 なぜこんな法律をつくりたいのかと突き詰めれば、政府に楯突く者を黙らせることが目的としか思えない。政権にとって都合の悪い人を監視し、共謀罪に該当する行為を探しだせば犯罪者に仕立て上げられる。こうやって国民から自由を奪い、独裁国家をつくりあげたいということだろう。独裁政治をするために、これほど都合のいい法律はない。

 共謀罪の恐ろしさを理解している大人たちは、せめて自分の子や孫に、あるいは身の周りの若者に共謀罪の危険性を伝えていく責任がある。テロ防止などと言うのは、政治に関心のない人たちを騙すための口実にすぎないと。

2017年4月14日 (金)

総理夫人付公務員を私物化した昭恵夫人の責任

 昨日のツイートを再掲しておきたい。

首相夫人付の国家公務員の責任に関する議論をツイッターで見かけた。彼女たちに責任がまったくないとは思わない。たとえば昭恵夫人の選挙活動に随行して選挙運動の手伝いをしたのは明らかに違法行為だろうし、本人たちに全く問題意識がなかったとは考えにくい。

昭恵夫人の私的な活動に同行したことも、公私混同であり適切な行動だとは思わない。しかし、仮に彼女たちが不適切だと認識していたとして、いったいどんな行動がとれたのだろうか? 昭恵夫人に「私的活動の補佐はできません」と言って断るということが容易にできる立場なのか?

あるいは上司に「昭恵夫人から私的活動への随行を求められているが、公務とはいえないので拒否したい」と相談したとして、安倍首相の言いなりになっている人たちに果たして認めてもらえただろうか? 悩みつつも、出向している身にとっては一時の我慢だと考えても無理はなかろう。

もし、そういう状態がどうしても我慢できないのなら、仕事を辞めるという選択肢しかないように思う。しかし、彼女たちは自分の意思で夫人付の秘書をしているのではなく命令によって配属されているのだから、そんなことで仕事を辞めねばならないというのは公正ではない。

この件でまず質さなければならないのは、公私混同して公務員を私物化していた昭恵夫人の責任だろう。5人もの公務員の秘書を付けて自由に使っていた以上、自分が公人と同然であることくらい自覚していただろうし、自覚していなかったなら非常識というほかない。

昭恵夫人とともに責任を負わねばならないのは秘書の上司だ。上司には部下の監督責任があるし、出張命令を出すのも上司なのだから、出張が適切かどうかの判断を下すのは上司の仕事だ。「部下が勝手にやった」などというのなら上司としての責任放棄であり上司として失格だ。

安倍首相をはじめ官邸の人たちも、夫人付の公務員が昭恵さんの私的活動にまで駆り出されていることは分かっていただろうし、それを黙認していたならやはり大きな責任がある。夫人付秘書の責任を考えるなら、彼女たち個人より彼女を使っていた人たちの責任の方が遥かに重いと私は思う。

昭恵夫人こそまず公私混同について認め、秘書や国民に謝罪する立場ではないか。自分のために働いてきた彼女たちを守るというのが昭恵夫人の取るべき行動だろう。ところが、公私混同が明らかになってからというもの、自分の非を認めるどころかどこかに雲隠れしてしまったようだ。

「総理夫人の私的活動に随行する」という公務員として不適切な行為をさせたり、それを許容したり黙認した者こそ大きな責任を負わねばならない。部下を守るべき立場の者が、あろうことに部下だけに責任を押しつけるのであれば、責任放棄であり人権侵害でありパワハラではないか。

今や、巷には自己責任論が溢れている。もちろん個人が判断したことの結果責任は本人が負わねばならない。しかし、上下関係が明瞭な組織においては、すべての判断が個人にあるわけではないし、すべての責任が末端の個人に帰結するわけではない。

森友学園問題も同じで、複雑に絡み合った利害関係の中で関わった人々それぞれに責任があると思うが、強い権限を持っている者ほど責任は重い。ところが、責任ある立場の官僚はだれ一人責任をとろうとはせず、籠池氏にすべての責任を押しつけようと躍起になっている。

何でも自己責任で終わらせてしまえば、より大きな責任を負っている人を見逃し、責任の小さい者だけに罪を押しつけることになりかねない。物事を大局的に捉えず、自己責任ばかりに目を向けると人権侵害に加担することになる。森友問題は広い視野で見ないと、本質を見誤ってしまう。

«森友学園問題で明らかになった右翼による政治の私物化

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