2018年4月11日 (水)

「君たちはどう生きるか」は人類にとっての永遠の課題

 昨年出版された漫画版の「君たちはどう生きるか」がかなり売れているという。私は漫画はあまり好まないし、こういう本は原作を読んでみるに限るという考えなので、遅ればせながら岩波文庫版を読んでみた。著者は東京大学の哲学科を卒業し、編集者、評論家、作家、翻訳家の肩書を持つ吉野源三郎氏(1899-1981)。「君たちはどう生きるか」は80年前の1937年に「日本小国民文庫」の中の一作品として書かれたものだ。

 この作品はコぺル君というニックネームの15歳の少年が主人公だ。中学校でのいじめ問題や友人関係で悩むコぺル君の日常生活と、コぺル君の相談相手である叔父さんがコぺル君に宛てて書いたノートによって構成されている。つまり、コぺル君の人間関係の悩みというストーリーを軸に、吉野さんのメッセージを「叔父さんのノート」という形で織り込んだ作品だ。

 本書で吉野さんが叔父さんに語らせている若者へのメッセージは、かいつまんで言うならおおよそ以下のようなことだ。

・差別をしてはいけないこと。
・人間は協力し合って生きていかねばならない存在であること。
・物ごとを俯瞰的に見ることの大切さ。
・主体性(自分で考え行動する)を持つこと。
・人類の発展のために学ぶこと。
・過ちを犯したときはそれを認め謝罪すること。

 これだけを読めば、当たり前のことを言っているにすぎないと言う人もいるかもしれない。しかし、この当たり前のことを実践できている人というのは、実のところそれほど多くはない。

 この本が書かれた1937年といえば、おぞましい日中戦争が始まった年だ。そして1941年には太平洋戦争が勃発した。国中が軍国主義に染まり、社会主義の運動は弾圧され、自由に物を言うこともできない息苦しい時代だ。1938年には国家総動員法が制定され、国民は強制的に戦争に駆り出されることになった。あの当時、日本人の多くはメディアに翻弄され軍国主義に大きな疑問も持たず時代に流されていたのではなかろうか。あるいは疑問に思っても口に出せず、国に従うしか術がない生活を強いられていたのだと思う。そんな状況にありながら、というよりそんな時代だからこそ次世代を担う若者主体性を持つことの大切さを伝えようとしたのが「日本少国民文庫」であり本書だろう。

 吉野さんは治安維持法で逮捕投獄され、執行猶予で釈放されたときにこの本を書いたという。身の危険を感じながらも、検閲で引っ掛からないように細心の注意を払って書いたに違いない。壮絶な時代の中にありながら、若い人たちへ向けた熱い想いが伝わってくる。

 本書が発行されてから80年経った今、再び脚光を浴びているのは単に漫画版で読みやすいとかブームというだけではなかろう。80年経っても、まだそのメッセージが新鮮だということに他ならないと思う。つまり、国民の主体性が完全に奪われ全体主義に染まった息のつまるようなあの時代から80年経った今もなお、私たちの多くが本書に示されたメッセージを実践できないがゆえに、「人はどう生きるべきか」という問いが繰り返されるのだ。

 当たり前と思えることがなかなか実践できない。それどころか近年はますます状況が悪くなっているかのように思える。ひとつにはこの当たり前のことを戦後の学校教育の現場で何ら教えてこなかったということがあるだろう。教えてこないというより、むしろ逆行する教育を行ってきたのではないか。つまり、自主性よりも従順であることを求め、リーダーとなりうる一握りのエリートの育成しか考えてこなかったのではないか。その他大勢はリーダーに従っていればいいのだと。

 受験に追い立てる競争教育は学ぶことの意味を置き去りにし、周りの人たちを「敵」にする。競争に乗れない子どもは落ちこぼれのレッテルを貼られ疎外される。近年の行き過ぎた資本主義は格差を生み、格差は憎しみを生む。学校は子ども達が協力しあう場ではなくなり、差別やいじめが後を絶たない。

 他国のことはよく分からないが、日本の若者は恐ろしく政治に無関心だ。戦後生まれの大人たちは、子ども達に政治に関心を持つことの大切さを教えず、主体性はおろか「周り」に合わせていればトラブルを避けられると教えてきた。私が若い頃は、政治の話しをする友人など誰もいなかった。

 こんな具合だから、自分の身を守るために自己主張をせず波風を立てないことがよしとされ、事なかれ主義が蔓延する。事なかれ主義で自分の責任を回避する習慣が身についているから責任感が欠如し、過ちを犯しても認めようとしない。吉野さんのメッセージと逆行する教育がなされてきたとしか思えない。

 太平洋戦争を経験した世代の人々が高齢になり戦争を知らない世代ばかりになってきた昨今、戦争というものがどれほど愚かで惨いかを想像できない人達が増えている。子どもだけではなく多くの大人が政治に無関心であり、関心があるとしてもせいぜい「景気」が良くなり自分の生活が安定するかどうかくらいしか頭にないからではなかろうか。だからアベノミクスにも簡単に騙されてしまう。

 そこには人の無知があり、思い上がりがあり、限りない私欲がある。「君たちはどう生きるか」で吉野さんが発信しているメッセージはシンプルで難解なことではない。しかし、怠惰で強欲な人類にとって、永遠の課題なのかもしれない。

2018年3月27日 (火)

疑惑が深まっただけの佐川氏証人喚問

 今日は森友学園問題で決算文書改ざんを指示したとされる佐川宜寿前国税庁長官の証人喚問だった。この喚問でのやりとりについてはニュースにもなっているので具体的に言及するつもりはないが、印象を記しておきたい。

 佐川氏がこの証人喚問に対してどう出るかは多くの人が注目していたし、真実を話すことで自分だけに責任を押し付けるような政権側のやり方に反撃するのではないかという期待を抱いていた人も多かったのではないかと思う。

 佐川氏は証人喚問の冒頭から「刑事訴追の恐れがあるので答弁を差し控えさせていただく」という予想された答弁拒否の発言をした。この瞬間に、佐川氏は官邸を守る決断をした、すなわち事実を包み隠さず話すという選択はしなかったと直感した。

 そして案の定、決算文書改ざんに関わる質問に関しては答弁拒否を繰り返した。そればかりではない。刑事訴追とは何ら関係のない「昨年2月の国会答弁は改ざん前の文書を基にしたか」「昭恵夫人の名前が決算文書にあったのを見たときにどう思ったのか」といった質問にまで「刑事訴追・・・」を理由にシラを切った。

 都合が悪いと思える質問に対しては答弁拒否あるいははぐらかしの答弁をする。しかし、官房や官邸などからの指示や圧力、あるいは関与などはあったのかという質問に関しては明確に否定。昭恵夫人の影響についても否定。不自然極まりない答弁を貫いた。

 想定される質問を網羅しどのような答弁をするのかあるいは答弁拒否するのか、弁護士と綿密な打ち合わせをして頭に叩き込んだ、そんなことを連想させる答弁だった。しかし、人というのは心の動揺まで隠せるものではない。早口になって言い訳をする姿に、「正直に答えている」という印象を持った人はまずいないだろう。疑惑を追及されると関係のないことを長々としゃべり続けて論点をそらす安倍首相の答弁に通じるものがある。

 昨年行われた籠池氏の証人喚問では、部分的に「刑事訴追の恐れ」を理由にした証言拒否はあったものの全体として不自然さはなく、矛盾を感じるようなこともなかった。それに比べ、今日の佐川氏の証人喚問はあきらかに不自然であり、無理をして誤魔化しているのは明白だった。疑惑が解明されるどころか、疑惑が深まるばかりの答弁だ。結局、事実をそのまま話さないという選択をしたなら、こうならざるを得ない。彼は恐らく良心の呵責を覚えながらも官邸を守る選択をしたのであり、それは間違いなく自分の目先の利益を守る選択だったのだろう。

 官邸を守る答弁をしたなら見返りがあるのに対し、官邸を裏切るような答弁をしたならこのあとさまざまな制裁が待ち構えている。佐川氏はそのことを一番よく分かっているに違いない。官邸に有利な発言を貫けば、偽証罪に問われることはないと踏んでいるのだろう。

 人は窮地に陥ったときに自分の身を守ろうとする。ただし、良心に従って真実を話すことが自分の身を守ることだと考える人と、目前の損得を秤にかけて得をとることが身を守ることだと考える人がいる。佐川氏は後者を選んだということだろう。

 佐川氏が国会において虚偽の答弁をし、決算文書の改ざんという指示をしたことはほぼ間違いない。このときも損得を秤にかけて身を守るという選択をした。そうした思考をする人が、証人喚問に場において考えを180度改め、良心に従って事実を話すという大転換をすることは並大抵のことではない。圧力をはねのけ証人喚問で包み隠さず事実を話せるような勇気のある人は、そもそも虚偽答弁や改ざん指示などといった国会や国民を裏切る行為はできない気がする。

 しかし、本当にその選択で良かったのだろうか。恐らく、今日の佐川氏の答弁に基づいて安倍政権は「官邸も昭恵夫人も関与していないことが明らかになった」としてこれ以上の証人喚問を拒否するに違いない。しかし、それでこの問題が収まるとはとても思えない。なぜなら、今日の答弁からは「なぜ決算文書の改ざんをしたのか」という核心部分は一切分からなかったからだ。これで野党の追及が収まるわけがない。佐川氏の答弁に納得できない者からの内部告発もあるかもしれない。加計学園に関しても公文書の偽造疑惑が指摘されているから、遅かれ早かれ加計問題にも飛び火するだろう。

 仮に、なぜ改ざんがなされたのか真相が分からないまま幕引きがなされたとして、佐川氏が人並みの良心を持ち合わせているのなら、一生、知っていることをありのまま話さなかったことに苛まれるのではなかろうか。しかも今日の答弁は多くの国民の期待や信頼を裏切った。つまり精神的苦悩を抱え込むことになるだろう。佐川氏は判断を誤った、私にはそう思えてならない。

2018年3月12日 (月)

原発事故から7年、日本は危機的状況から脱することができるのか

 東日本大震災と福島第一原発の事故が起きてから丸7年が過ぎたが、「現代ビジネス」に興味深い記事が掲載されていた。

福島原発事故から7年、復興政策に「異様な変化」が起きている

この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる「福島の未来」

 原発事故からの復興を利用した、安倍政権の「騙し」の手法、そして官僚の権力へのへつらいがひしひしと感じられるのだが、この無責任な政治や行政の根源はどこにあるのか? 筆者の山下氏は国の無責任化は「二大政党制」と「政治主導」ではじまったと言う。

 二大政党制を目的に導入された小選挙区制が民意を蔑にし、内閣人事局の創設で官僚の人事権を握って政治主導を手にした安倍政権が、今の末期的ともいえる騙し体質、無責任体質を生んでいるのは確かだと思う。

 森友学園をめぐって公文書の改ざんがあったことが明確になってきたが、こうした国民を欺く政権を解体させ、無責任体質を根本から変えねば、この国はまっとうな民主主義国家になれそうにない。原発事故からの復興政策も森友文書改ざん事件も、みんなつながっている。

 原発事故から7年経って私が何よりも懸念するのは、日本が再び大地震や大津波などの自然災害に襲われるのではないかということだ。御岳山が噴火し、草津白根山が噴火し、つい先日は九州の新燃岳が噴火した。火山活動が活発化しているということは、プレートに圧力がかかっているということだ。東日本大震災の直前にも新燃岳が噴火している。いつ再び大地震がおきてもおかしくないのに、国は原発事故を過小評価し、再稼働に血道を上げている。

 日本は政治においても自然災害に端を発する原発事故においても、ほんとうに危機的な状況に置かれている。

2018年3月11日 (日)

菅野完氏のツイートをリツイートすることが性暴力加害者を擁護することになるのか?

 昨日、ツイッターで菅野完氏と山崎雅弘氏の応報を見かけた。私は両氏をフォローしている。彼らのやりとりはどっちもどっちという感があるが、その応報の中で山崎氏が以下のツイートをリツイートしているのが目にとまった。

 ここにリンクされている菅野完をRTしながら#metooという人に、言いたいこと。という記事を読んでみたが、これについて私の意見を書いておきたい。

 まず前提として言っておくが、私は菅野完氏によるセクハラ(女性の自宅で女性に抱きついたあるいは押し倒したという事件。性暴力と言われているが、犯罪ではないのでセクハラと表現する)は明らかに人権侵害であり、やってはならないという立場だ。この点において彼を擁護する気はさらさらない。

 また菅野氏のツイッターでの暴言もまったく支持しないし、不快としか思わない。暴言によってツイッターを凍結されても擁護する気は毛頭ない(もっともツイッター社の凍結の判断が公平さを欠いているという認識はある)。もちろん菅野氏の暴言や他者を見下すツイートはリツイートしない。

 しかし、菅野氏のツイートをリツイートすることが彼を擁護することになるのか? 性暴力にノ―と言うなら彼のツイートをリツイートするな、などと言えるのか?

 山口敬之氏の犯した性暴力はどう考えてもレイプであり犯罪に該当する。自力で歩けない女性を無理やりホテルに連れ込み、意識を失っているのに性行為。極めて重大な性暴力だ。しかも、その犯罪を権力をつかって握りつぶした疑いがもたれている。そして、不起訴になったからと開き直り、言い訳ばかりして謝罪も反省もない。

 では菅野氏はどうか。菅野氏と被害者の間で事実関係について争いはなかった。菅野氏は加害行為を認めて謝罪し、示談交渉で被害者からの200万円の慰謝料要求も受け入れた。しかし被害者は言論活動の制限(ツイッターのアカウント停止等)にこだわって示談を蹴り裁判を起こした。さらに裁判での和解交渉も蹴った。私には、自分の性的被害を理由に言論活動の制限まで要求することの方が非常識だと思えてならない。被害者が加害者のツイートを見たくなければ、ブロックすれば済むはなしだろう。

 この裁判は高裁まで争って今年の2月8日に終結している。菅野氏は判決に従って110万円の慰謝料を支払っていると判断できる。民事訴訟で不法行為を認定されたものの、刑事事件にはなっておらず犯罪とは言えない。一方で、菅野氏によるセクハラは週刊金曜日やマスコミによって報じられ、菅野氏は社会的制裁も受けた。菅野氏は判決を受け入れて責任をとり、社会的制裁も受けてこの問題は決着がついている。セクハラをしたという事実は消えないが、自己保身のために事実をねじ曲げたり責任回避をしたわけではない。

 菅野氏の民事訴訟に関しては昨年以下の記事を書いたので参照していただきたいが、私は被害者の行動に不可解さを強く感じている。

菅野氏の民事訴訟について思うこと

 山口氏と菅野氏では、加害の内容(軽重)も全く異なるし、自分の罪を認めて責任をとるという態度においても大きな違いがある。山口氏の他にもセクハラ疑惑があるジャーナリストが複数いる。彼らに共通しているのは、自分の非を認めようとしなかったり、言い訳をしたり、責任をとろうとしないで逃げ回っているということだ。罪を犯したこともさることながら、この無責任さこそ人間性を露わしているのではないかと私は思えてならない。

 私は、このようなジャーナリストがまっとうな意見を言っていても、それを紹介する気にはなれない。性暴力加害者だとか犯罪者だからという理由で言論を封じることはあってはならないが、人権侵害をして反省もしなければ責任もとらない人が人権を語る資格はないし、言論人としての適性を欠くとしか思えないからだ。

 私も若い頃に顔見知りの男性からいきなり抱きつかれたことがある。電車での性的被害は何度もあっている。「me too」と言う立場にある。性暴力を受けた女性自衛官の裁判を傍聴したこともあるし、性暴力の重さも理解しているつもりだ。しかし、加害行為と言論の自由(リツイートも含む)は別問題であり、両者を結びつけて加害者擁護だという主張には首を傾げざるを得ない。

 人は完全ではない。誰もが罪を犯し得るし、人権侵害を犯してしまうこともあり得る(もちろん自制できないのは人間性の問題ではあるが)。そんなときに自分の非を認めて責任をとることこそ大きな勇気がいるし、人として誠実か否かが試される。それができる人とできない人を区別することなく、また加害の軽重も考慮せず、山口氏と菅野氏を「性暴力加害者」とひとくくりにし、言論と加害の問題を単純に結びつけてしまうような意見にはどうしても賛同できない。

2018年3月 8日 (木)

歴史に残る森友学園をめぐる腐敗政治

 森友学園問題が発覚してから一年余。安倍首相は2017年2月17日に「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と発言した。その後、安倍夫妻の関与を疑わせる証言、文書、録音記録などが次々に公表されたが、籠池夫妻を長期拘留して口封じをした上、丁寧な説明はいっさいせずに誤魔化してきた。

 そして問題発覚から一年たって出てきたのが3月2日に朝日新聞が報じた公文書改ざん疑惑。改ざんされたとされる文書は、2015年から16年に森友学園と土地取引をした際に近畿財務局の管財部門が局内の決済を受けるために作成した文書。「本件の特殊性に鑑み」「学園に価格提示を行う」などの表現が削除された改ざん文書が国会議員に開示されていたというのだから、事実なら国会も国民も愚弄したことになる。

 そして、今日は毎日新聞が朝日の後を追って改ざん疑惑を報じた。毎日新聞の場合は昨年9月に情報公開で開示請求した文書(財務局が学園に売却額の予定価格を通知した際の決裁文書)と昨年5月に国会に提出した同文書が異なっていることから、改ざんされた疑いがあるというもの。

森友文書 別文書に「特殊性」の表現 国会開示にはなし

 森友学園問題は発端こそ国有地の不可解な値引き問題だったが、疑惑追及の中で分かってきたのが安倍夫妻の関与。この一年間に公表されたさまざまな状況証拠からも、国有地の取引において安倍夫妻が関与していたと考えざるを得ない。要は加計学園問題と共に、首相夫妻が政治を私物化していたという疑惑。それを隠すことに必死になった挙句、公文書の改ざんという犯罪行為にまで手を染めてしまったなら愚劣極まる。

 多数の資料や録音という証拠があるにも関わらず、安倍首相が一年もの間のらりくらりと追及をかわしてこられたのは、2014年に設置した「内閣人事局」のおかげだろう。内閣人事局によって安倍首相に従う官僚ばかりが登用されるようになった。官僚はアメとムチによってコントロールされ、逆らうことがほぼ許されない体制を作り上げた。事実上の独裁だ。

 安倍首相は自分でつくりあげた恐怖体制によって、何でもまかり通ると思い上がってしまったようだ。しかも、今回の公文書改ざんは事実なら犯罪に該当する。改ざんを認めたらタダでは済まないことは十分理解している。しかし、これまで同様、シラを切り続けてもとりまきが自分を守ってくれると信じているのだろう。恐ろしいのはこの独裁政権が検察まで牛耳っていることだ。

 改ざん問題が今後どのようなことになるのか予測がつかないが、どうしても逃れられなくなったら、改ざんに関わった人物を処分して幕引きを図るつもりではなかろうか。恐怖体制を利用して徹底的にシラを切って逃げ切るというのが安倍政権のやり方だ。しかし、果たして朝日新聞と毎日新聞の2社が改ざん疑惑を報じた今度ばかりは、逃れきれるだろうか?

 これまで生きてきて、ここまで国会と国民を愚弄する政権は記憶にないし、保身のためにこういう首相に媚びへつらって恥じない取り巻きに怒りしか湧いてこない。彼らは、恥というもののかけらも持ち合わせていないのだろうか。

 このまま安倍政権が生き残るようなら、この国は間違いなく腐敗した独裁国家だ。後に、森友事件は戦後最大の政治の腐敗として歴史に残るだろう。

2018年2月24日 (土)

不十分な生活困窮者支援

 少し前のことになるが、1月31日、札幌の民間の自立支援施設「そしあるハイム」から出火し、入居者11人が亡くなるという悲惨な事故があった。スプリンクラーもない木造の古い建物だったことから、あっという間に全焼した。「そしあるハイム」は50年ほど前に建てられた旅館を利用した共同住宅で、生活困窮者の就労支援を目的として民間の合同会社「なんもさサポート」が運営していた。要は行き場のない生活困窮者の受け皿で、この施設があったからこそホームレスから抜け出すことができたという人も多い。入居者の多くが生活保護を受けていた。

 この火事をめぐっては、この施設が無届の老人ホームに当たるかどうかとか、スプリンクラーの設置がどうとかいった点が問題視されているのだが、そこばかりに視点を当てると、困窮者の自立支援を民間の組織が担っているという本質的な問題から目をそらすことになる。実際、警察や役所が生活困窮者に「なんもさサポート」を紹介していたという。つまり、こうした人たちを受け入れる公的施設がないのが実態なのだ。この火事は生活困窮者に対する行政の支援問題を浮き彫りにした。

 ホームレスなどの生活困窮者が生活保護を申請してアパートなどに入居することは不可能ではない。家賃の安いところを探せば、生活保護の受給額でもなんとかやっていける。ただし生活保護を申請する際には審査があり、一人で自立した生活ができるかどうかが問われる。高齢であったり、障害や病気で一人で自立した生活ができない場合は、自治体などが運営する更生施設や社会福祉法人などが運営する自立支援施設に頼るしかない。

 「そしあるハイム」は希望者には食事も提供しており、一人で自立した生活をすることができない高齢者の終の棲家になっていたという側面がある。古い建物でも、身よりのない人たちが協力しあって生活するかけがえのない場であったのだろう。

 私たちはいつ困難な状況に陥るか分からない。会社の倒産や解雇で職を失ったり、病気や怪我で働けなくなったり、親の介護で仕事を辞めざるを得なくなったり、自然災害などで家族や住宅を失ったり・・・。そんなときにも社会保障制度によって衣食住を保障されなければ法の元の平等、基本的人権が守られていることにはならない。

 ところが、ホームレスになってしまった人を「負け組」だとか「自己責任」だと嘲笑する人たちが一定程度いる。いったい誰が好んでホームレスになるというのだろう。個人の問題というより公的支援の問題が大きいにも関わらず、いとも簡単に「働いて自立せよ」などと言う人もいる。こういう人たちは、定職も身よりもない人がアパートを借りることすら極めて困難だという現実を分かっていないのだろう。今は賃貸住宅も空き部屋が沢山ある。しかし安定した収入がなかったり保証人のいない人にアパートを貸す家主は多くない。生活保護制度があるといっても、申請を受け付けてもらえない事例があとを絶たない。

 海外にお金をばら撒いたり軍事費に多額の予算をつけたり、無駄としか思えない公共事業もある。その一方で、ホームレスや生活困窮者のための施設運営すらできないというのは国の怠慢というほかない。

 ホームレスをなくし、生活困窮者をなくすには、行政が自立支援の施設を用意することも必要だが、それと同時に一人ひとりに寄りそってアパートを借りるための手続きや就労の支援、その後の見守りなどきめ細かいバックアップをすることも重要ではなかろうか。日本の社会保障制度にはそのようなソフト面が決定的に欠けていると思う。

 日本はこれから否応なしに少子高齢化が進む。こうした中で、住宅を借りる際に保証人になってくれる身内のいない人も増えるだろう。非正規雇用が増える中で、国民年金すら納められない人も多い。2人以上の世帯で貯蓄ゼロの世帯は3割もあるという。無年金の人や年金だけでは暮らせない人はこれからどんどん増えていく。今は健康でも、病気などで働くことができなくなれば公的支援に頼るほかない。ところが、今の政治を見ていると社会的弱者が安心して生きられる社会とは正反対の方向に向かっている。さらに驚くのは、そんな政権を支持する若者たちが多いということだ。彼らは社会的弱者を切り捨てる政治をよしとしているのだろうか? 自分の将来に不安がないのだろうか?

 「勝ち組」とか「負け組」という言葉を耳にするようになったのはいつからだろうか。格差を勝ち負けで表すとは何て嫌な表現だろうと思う。勝った者は負けたものを見下して「自己責任」だと切り捨てる。勝者になれなかった者は、バッシングできる相手を探して匿名で罵ったり嘲笑したりする。全員が「勝ち組」になれるはずもなく「負け組」の人たちがいなければ社会が回らないのだから、こうした格差は個人の努力の問題ではなく社会のシステムの問題だ。それなのにそのシステムを改善する方向に向かわず弱者を嘲笑するような人たちに寒気がしてならない。

2018年2月11日 (日)

資本主義がもたらしたバッシング社会

 オリンピックにはほとんど関心がないが、オリンピックが始まるとメダルの数や選手に対する期待の強さに辟易とする。と思っていたら、リテラにこんな記事が出ていた。

   平昌ではジャンプの高梨沙羅が標的に・・・五輪選手への道徳押しつけバッシングの異常! 今井メロや國母和宏が心境告白

 スノーボードハーフパイプで予選落ちした今井メロ選手に対する嫌がらせ、高梨沙羅選手、國母和宏選手、里谷多英選手、安藤美姫選手らへの異常なバッシング。これらは批判(物事に検討を加えて、判定・評価すること)といえるものでは決してなく、単なる暴言、悪口だ。ここまで酷いのかと思うと、気分が悪くなってくる。

 これらのバッシングは、選手に対する過大な期待だけの話しではない。何でもいいから批判できることを探しては叩く、つまり人を叩くこと自体が目的になっている人たちが一定程度いるということだ。

 思い返せば、2004年にイラクで日本人の3人の若者が拘束された時のバッシングも凄まじかった。あの頃はインターネットも広く定着してきた時期だったが、人質になった今井紀明さんのところには罵声や嫌がらせの電話のほか、大量の非難の手紙が送られてきて、彼はしばらく部屋に引きこもったという。

 近年では、2015年から2016年にかけて活動した安保法制案に反対する学生グループSEALDsのメンバーに対する異常な攻撃もあった。ネット空間で名指しで攻撃されてもまったく平気で動じないという人はほとんどいないだろう。自分は決して傷つかない匿名で、他人を傷つけることこそがバッシングする人たちの目的なのだろうと思うとおぞましい限りだ。

 匿名で言いたい放題にできるインターネットが、バッシングや炎上を広げていることは間違いないだろう。しかしリテラの記事にあるように、言いがかりとしか言いようがないことでバッシングするというのはもはや常軌を逸している。鬱屈した人間が異常なほどに増えてきているとも思う。

 ツイッターを見ていても、他人の意見にいちいち言いがかりをつけたり揚げ足取りをする人の何と多いことか。この精神の歪みは、やはり社会を反映しているものなのだろう。他人をバッシングして憂さ晴らしをするという精神の根底には、競争社会と格差の拡大が間違いなくある。

 競争というのは、自分がのし上がるために他人を蹴落とすことでもある。競争をさせられると周りの人たちはすべて敵になってしまう。そして「敵か味方か」「勝ちか負けか」という物の見方をするようになる。競争に勝った人は負けた人たちを見下すことになりかねない。また、競争に負けた人たちは、他人の粗探しをしてバッシングすることで優越感を得ようとする。妬みや恨み、復讐心に満ちた世界に平和などない。

 「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるが、他人の不幸を喜ぶという心理は、人間のネガティブな感情に起因するらしい。こちらの記事によると、以下のようなことが分かってきているそうだ。

“相手に対して「妬み」の感情を抱いている時、脳はその人の不幸を、より強く「喜び」として感じます” “一方で私たちは、相手に特に妬みの感情を抱いていない場合、不幸にみまわれた人を心配したり、かわいそうな境遇にいる人に同情したりします”


 日本では子どもの頃から競争にさらされ、勝者と敗者に分けられていく。さらに富裕層と貧困層の二極化が進めば進むほど、ネガティブな感情が渦巻いていく。こうしてバッシングの土壌がつくられていくのだろう。その根源は人々を競争に追い立て、挙句の果て格差を拡大させた新自由主義的な資本主義に行きつく。このまま資本主義を続けようとする限り格差はさらに拡大し、バッシング行為は激しくはなっても収まることはないだろう。

2018年2月 1日 (木)

定常経済を説く、内田樹「ローカリズム宣言」

 前回はナオミ・クラインの「これがすべてを変える」について書いたが、その後に内田樹著「ローカリズム宣言」を読んだ。ナオミ・クラインは地球温暖化の危機は市場原理主義、グローバル化がもたらしたのであり、温暖化の危機を回避するためには経済成長から脱しなければならないと主張する。一方で内田氏は、グローバル資本主義は終焉を迎えようとしており、今後は経済成長から脱して定常経済モデルを手作りしていく必要があるという。

 二人の発想の基点は異なるものの、ともに目指す方向は「脱成長」すなわち「定常経済」であり、キーワードは「ローカル」「共同体」だ。温暖化問題をつきつめればその解決は定常経済に行き着く。また、経済成長がゼロに近づき格差の拡大が止まらない上に少子高齢化から逃れられない日本の現状からも、もはや経済成長を続けるのは無理があると考えるのは当然だろう。

 内田樹氏の説明は極めて明快で、経済学の知識がなくても非常に分かりやすい。人の生理的欲求には限界があるので、衣食住の基本的な制度が整備されると経済活動は鈍化する。人間は限界を超えた消費活動をすることができない。この経済成長の基本原理を忘れたことで、経済をめぐる無数の倒錯が起きていると内田氏は指摘する。

 この当たり前のことこそ、私自身が経験してきた。私が子どもの頃はまだ物がそれほど溢れてはおらず、衣類にしても文房具にしても与えられたものを大事に使っていた。ところが今はどうだろう。街の商店にも、家の中にも、生きていく上でどうしても必要だとは思えない雑多なものが溢れている。私も歳と共に少しずつ物の整理をしているが、ほとんど使わずしまいこまれている物がいかに多いことかと驚いてしまう。最近では、消耗品や生活必需品以外の物はほとんど買わない(ただし本だけは買ってしまうが)。なぜなら興味本位の安易な買い物は、結果的にゴミを増やすだけだと身をもって経験してきたからだ。

 私が学生の頃は、一億総中流などと言われた。どの家でも洗濯機や冷蔵庫、テレビなどの家電が一通り揃い、雇用も終身雇用で安定していた。ところがバブルが崩壊し、米国型の経済システムを真似るようになってから非正規雇用という不安定で低賃金の労働者が増え、格差が拡大し、福祉も医療も削られている。これこそ新自由主義型の資本主義のなれの果てであり、経済成長が永遠に続くなどということはあり得ないことを示している。

 内田氏は、政党が株式会社化し、国会はシャンシャン株主総会になったと言う。政党は執行部の指示に反抗しないイエスマンを候補者として選挙に送りだすようになり、国会が形骸化し機能しなくなってしまったと。資本主義の競争社会の中で、国会だけではなく行政も医療も学校も、日本の社会集団のすべてが株式会社のようになってしまったと指摘する。イエスマンを従えた安倍首相は、数の論理を盾にやりたい放題。ほとんど独裁状態であり、その暴走を誰も止めることができない。

 日本中が株式会社化し、資本主義の競争原理が個人の主体性を失わせているというのはたしかにその通りだろう。もっとも私個人としては、もともと同調圧力が強く働いている共同体に資本主義の競争原理が加わって、ますます個人の主体性や個性が失われてしまったという印象を抱いている。いずれにしても同調と競争を強いられる集団ほど息苦しいものはないし、多くの日本人はまさにその息苦しさに喘いでいるのではなかろうか。

 このまま経済成長を続けようとするとどうなるのか。内田氏は経済学者の水野和夫氏の主張を持ち出し、企業の収入は増えるが労働者はどんどん貧しくなっていくと指摘している。ますます貧富の差が拡大するということだ。水野氏は資本主義の先に定常経済(ゼロ成長)がくると予測しているそうだ。

 私は、資本主義というのは地球の自然環境を破壊して資源を消費しつづけるシステムであり、自然に逆らうシステムに他ならないと思っている。自然の摂理に反するシステムがいつまでも続くはずはない。人は自然なくしては生きられないが、地球の資源(自然環境)は限られているわけで、資源を使い放題にしたうえに環境を破壊し汚染してしまったなら人類は生存し続けることはできない。資源の無駄遣いを止め、生態系のサイクルからはみ出さないような持続可能な生活を維持しなければ、人類に未来はない。つまりは定常的な社会だ。これから目指すべきはエネルギー(もちろん再生可能エネルギー)も含めた地域での自給自足の生活ではないかと思っている。

 内田氏も、自然環境を守ることは資産を守ることであり、経済成長のためにこの資産を汚したり捨て値で売ったら、今の日本の経済力では未来永劫買い戻すことはできないと言う。経済成長を唱える人たちは、このことになぜ気が回らないのだろうか? 私は不思議でならない。

 新聞などのマスコミであろうと個人であろうと「脱経済成長」とか「定常経済」を主張する人は極めて限られている。経済成長を否定しようものなら、トンデモ扱いされるというのが現実ではなかろうか。まるで経済成長がない社会は夢も希望もない世界だと言わんばかりだ。

 しかし、定常経済というのはそれほど夢も希望もないつまらない社会なのだろうか? あるいは今の便利な暮らしを捨てなければならないのだろうか? 水野氏は、定常経済で株式会社は収益を人件費と減価償却に充て、株主への配当は定期預金の金利程度にすると、賃金は50%アップすると試算しているそうだ。ならば、決して「みんなで貧乏になる」ということにはならない。急激な発展もないけれど、時間に追い立てられることも過度の競争もない社会が悪いとは思えない。少なくとも私は今の生活は十分便利だと思うし、衣食住に困らなければ進歩が緩やかであったとしても何ら問題ないと思う。

 少子高齢化が進み労働者人口が減るとはいえ、海外へのばら撒きを抑制し、軍事費を縮小し、米軍への思いやり予算を削減し、無駄な公共事業を止めれば、社会福祉や医療、教育などの充実も図れるのではなかろうか。息が詰まるような競争ではなく、互いに協力し合う生活こそ、人として健全だろうと思う。アドラーの言う「共同体感覚」が重なってくる。

 内田氏は資本主義の終焉を直感した人たちが、都会から地方へと脱出し始めているという。経済成長ゼロの時代を乗り切るために、地域の共同体を再生し人々が互いに助けあいながら「小商い」をすることを提唱する。

 北海道の地方ではここ数十年の間に鉄道が消え、学校が統廃合され、医療機関が次々と姿を消し、商店街はシャッター街となり、人口の減少と高齢化が進んでいる。一方で数は少ないながら地方に移住してくる人たちもいる。とはいうものの、地方、とりわけ農村のコミュニティーは人づてに伝わってくる話しを聴く限り極めて閉鎖的で排他的だ。つまり、従順な者は受け入れても異質な者を排除するという慣習が色濃く残っている。

 資本主義の終焉の時代を生き抜くために最も必要なのは、主体性を持った多様な人々が共存できるコミュニティーの形成だ。都会であれ田舎であれ、人々が競争やお金儲けの意識から脱し、協力的な人間関係をつくりあげることができるかどうかが大きな鍵になるように思える。

 なお、本書のまえがきは以下から読むことができる。
「ローカリズム宣言」まえがき

 内田氏の以下の論考も紹介しておきたい。
日本はこれからどこへ行くのか

2018年1月27日 (土)

温暖化への警告の書、ナオミ・クライン著「これがすべてを変える」

 カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインの「これがすべてを変える 資本主義VS 気候変動」(上・下2巻 岩波書店)を読み終えた。上下巻合わせ、本文だけで600ページ(引用文献が上下巻合わせ130ページほど)を超える大作だ。

 近年は夏の異常な高温や集中豪雨、あるいは寒波などの異常気象が目に見えて増えてきているにも関わらず、日本では地球温暖化の問題が深刻に捉えられているとは思えない。アル・ゴアの「不都合な真実」が話題になった頃は温暖化議論も活発化したが、昨今では温暖化問題はさっぱり目にしなくなった。

 それどころか、「地球は寒冷化しているから化石燃料をどんどん燃やしても問題ない」「温暖化説は陰謀」などといった温暖化否定論や陰謀論が一定程度の支持を得ているようだ。とりわけ反原発を唱える人の中にこうした陰謀論が根強いように感じる。CO2温暖化説は原子力推進派による陰謀だと。

 私もブログやツイッターで温暖化説を支持する発言をした際に、否定派の人から「説得」とも受け取れる反論をされたことがある。彼らは完全に否定論や陰謀論を信じこんでいるから本書などは読む気もないのだろうけれど、本書を読めば、化石燃料採掘会社と、化石燃料の消費によって富を得ている一握りの人たちこそが温暖化否定論や陰謀論の根源であることを思い知らされる。

 今や97%の科学者がCO2による地球温暖化を認めているし、このまま二酸化炭素の放出量が増え続けると今世紀終わりまでに世界の気温は今より4度上昇するという予測まである。4度上昇した世界がどんなものになるのか。海水面が上昇し、いくつかの島嶼国家だけではなく広範囲にわたって海岸部が水没する。熱波が人の命を奪い、暑さのために主要作物の収穫量が大幅に減少。干ばつや洪水、害虫の大発生、漁業の崩壊、水供給の破壊・・・。そして何よりも恐ろしいのは、ティッピングポイントと呼ばれる臨界点を超えてしまった場合に起こる暴走。そうなったらもはや人の力で阻止することは不可能だ。

 地球温暖化をこのまま放置したなら世界中の人々に壊滅的な影響を与える。だからこそ世界の国々が温室効果ガス削減に向けて交渉を続けてきたが、二酸化炭素の放出量を減らし、再生可能エネルギーに転換する取り組みは遅々として進まない。二酸化炭素の排出量は増える一方で、最悪の事態に向かって突き進んでいる。著者はその理由を規制緩和とグローバル化を推し進めてきた市場原理主義にあると喝破する。

 大量生産と大量消費、グローバル化による物資の大量輸送が化石燃料を大量に消費することは言うまでもない。さらに、新自由主義によって富の極端な集中と格差の拡大がもたらされた。今すぐに市場原理主義から持続可能な経済へと変革していかなければ温暖化による壊滅的な被害は避けられないが、今ならかろうじて間に合うと著者は言う。

 端的に言うなら経済成長を目指す資本主義から脱するしか解決の道はない。本書のタイトルには「資本主義 VS 気候変動」とあるが、だからといって社会主義を主張しているわけではない。独裁的社会主義もまた資源をむさぼり廃棄物をばら撒いてきたからだ。すなわち、搾取主義と過度の輸出から脱し、持続可能な社会を築くしか道はない。

 具体的には、大量消費のライフスタイルを見直すとともに、リサイクル、公共交通の利用や農産物の地産地消などを進める。また国による規制強化や炭素税、富裕層への課税強化などによる収入の確保、地域コミュニティーによる再生可能エネルギーの管理、公共交通や再生エネルギーなどへの公共投資を提案する。経済成長から定常経済への移行は決して不便な時代への逆戻りではない。真の民主主義を取り戻すことで格差を解消し人々の生活を向上させることが可能だという。

 著者が最も言いたいのは、我々が直面している地球温暖化の危機は、新自由主義による暴走や格差の拡大を絶ち切って真に民主的な社会を構築するチャンスになり得るということだ。たとえば著者が「抵抗地帯」と呼ぶ化石燃料採掘やパイプラインの建設に反対する住民運動が世界で繰り広げられるようになった。こうした人たちが再生可能エネルギーの推進、転換へと動き始めている。地域に根差した草の根の運動こそが改革を可能にするというのが著者の考えだ。

 私自身、これまでもブログやツイッターで「永遠の経済成長などあり得ない」という主張をしてきた。地球の資源は有限であり、人類も地球の生態系の一員である以上、資源の浪費を止め持続可能な暮らしを維持しない限り、人類は自分で自分の首を絞めることになりいつか破綻すると。地球温暖化は人類が地下に眠っている化石燃料を使い放題にし、そこから得られる利益を一部の人たちが独占するという資本主義のシステムによってもたらされたというナオミ・クラインの指摘はその通りだと思う。

 地球上で、環境を汚染させ、富の蓄積を目指す生物など人間の他にいない。地球のシステム、自然の力は人類の知恵や技術に及ばない。生態系から大きくはみ出して環境を汚染させ続けたなら、必ず自然によるしっぺ返しがくる。その一つが地球温暖化だ。

 昨今は石油に変わって天然ガスがもてはやされている。しかし、フラッキング(水圧破砕)によるシェールガス・オイルの抽出やオイルサンドの採掘が従来の化石燃料の採掘より遥かに多くの温室効果ガスを排出することは日本ではほとんど報じられない。またこれらの採掘は自然破壊だけでなく有毒物質による環境汚染を引き起こし、パイプラインからの漏出は大規模な環境汚染を引き起こしている。私たちはこうした事実を知り、危機感を持って向き合わねばならないと痛感した。

 本書は2014年に出版され、すぐさま25カ国語に翻訳されたという。それほど注目を浴びる書だ。しかし、恐らく日本ではこの大著を手にする人は多くないだろう。なぜか日本ではあまりに地球温暖化に対して危機感が薄く、不思議なほど大きな話題にならない。福島の原発事故を体験したがゆえ、とりあえずは化石燃料の利用もやむを得ないという考えがはびこっているような気がしてならない。しかし、いつまでも化石燃料に頼っていることにはならないだろう。

 自分の利益しか考えない人たちによって地球に危機がもたらされたのだ。地球温暖化の事実を知った私たちの世代こそ、地球の未来に大きな責任を負っている。

2018年1月18日 (木)

不可解な子宮頚がんワクチン(HPVワクチン)推進論、WHOも関与か?(追記あり)

 今、インターネットで「子宮頚がん ワクチン」と検索すると、ワクチンを推奨する意見が上位に並ぶ。これらの記事を読んで、子宮頚がんワクチンの副反応と言われているものは心因性であり、ワクチンによる副反応という主張はエビデンスがないと信じてしまう人も多いかもしれない。

 しかし、ちょっと待ってほしい。そもそも検索上位に出てくる記事が正しいなどとは言えない。私は福島の原発事故が起きる前に使用済み核燃料の保管についてネット検索したのだが、いわゆる原発推進派と見られる安全論ばかりが出てきたことをよく覚えている。検索順位などいくらでも操作できる。だから、原子力問題をはじめとした利権構造がある問題や議論が分かれるような問題に関しては十分な情報収集が欠かせない。

 そしてこの子宮頚がんワクチン問題で何よりも不可解なのは、公費負担の対象となっている少女は無料ないしは低額でワクチンの接種ができるにも関わらず、なぜこれほど推奨記事が溢れているのかという単純な疑問だ。

 まず、ツイッターで得た情報から、子宮頚がんワクチンの接種後に体調不良が生じた少女たちを診察した医師たちの見解や論文などをいくつか紹介したい。

ハンス病を主張する横田俊平医師による説明
HPVワクチン報告
HPVワクチン副反応報告 後半  

自己免疫性脳症を提唱する高畑克徳・高嶋博氏による論文
自己免疫性のj賞を見極めるための新しい神経診察の提案-身体表現性障害との鑑別-  

ワクチン接種により惹起された免疫反応的脳炎モデルではないかとする長尾和宏医師の見解
子宮頚がんワクチン被害者を診てほしい

 子宮頚がんワクチンの問題は副反応だけではない。ワクチンそのものの効果の問題がある。以下は副反応のほかに有効性も含めて問題点がまとめられている。

日本におけるHPVワクチン有害反応の教訓:医療倫理学的観点

 ここから予防効果に関する重点部分を以下に引用しておきたい。

 HPVワクチン接種を推進する人々はこれらのワクチンが子宮頚がん予防に98-100%有効だと言うが、実際にはHPVワクチンで期待しうる絶対リスク減少(ARR)を既存のデータをもとに計算すると、たかだか0.1~0.7%に過ぎない。しかも、それは前がん病変をきたすリスクを低下させただけで、子宮頚がんのリスクについては不明なままである。

 一方で、副反応とされる症状は心因性であると主張し昨今もっともメディアを賑わせているのは医師・ジャーナリストの肩書を持つ村中璃子氏だろう。村中氏の主な記事はこちらにまとめられている。

特集:子宮頚がんワクチン問題

 私は村中璃子氏の一連の記事を読んで、非常に巧みだと思った。村中氏は患者を診察し子宮頚がんワクチンの副反応であると主張する臨床医たちの見解について、いずれもエビデンスがない単なる仮説だと主張し心因説を強調する。しかし、彼女の主張する心因説とて仮説でありエビデンスはない。仮説を並べておきながら、心因説のほうが正しいとばかりに誘導しているのだ。明らかに偏った書き方だろう。また記事中のインタビューで心因性を主張する医師はほとんどが匿名だ。なぜ堂々と実名で話せないのだろうか?

 彼女は肩書を医師としながら、勤務している医療機関などは書かれていない。そして、被害を訴える少女たちを自分で診察したという記述は見あたらない。それどころか取材にあたってジャーナリストおよび医師の職業倫理にも抵触する不適切な行為があったとして弁護士から内容証明郵便を送付されている。

村中璃子氏の不適切取材の全容(内容証明)

 もう一つ、巧みだと思ったのはこちらの記事の以下の記述。
 この記事を出すには大変な勇気が必要だった。筆者が製薬会社の回し者である、国のプロパガンダを広げる御用医師だといった根も葉もない中傷も寄せられている。そういった反応があるのは想定の範囲内だったが、考えてみてほしい。この記事を書くことは筆者にとってリスクになることはあれ、どんな得になるというのだろうか。

 自分は製薬会社とは全く関係がなくこうした意見を書くのはリスクしかないと主張しているが、私にはこのような書き方をすることで予防線を張っているのではないかと思えてならない。

 ウィキペディアで彼女の経歴を調べると、「外資系製薬会社の疫学担当ディレクターを経て」とある。製薬会社と全くの無関係とは言えないだろう。

 また、これらの記事のプロフィールに「WHO(世界保健機関)の新興・再興感染症対策チーム等を経て」とある。ウィキペディアでは「WHO(世界保健機構)の医療社会学者」と書かれており、WHOとの関わりが深い。というとWHOなら信用できると思う人は多いかもしれない。しかし、私はWHO自体に大きな疑問を抱いている。以下の記事を是非お読みいただきたい。

WHO(世界保健機関)がおかしい TPPの国際安全基準のいかがわしさ

 新型インフルエンザワクチンと子宮頚がんワクチンの販売にWHOが関与したのではないかという疑惑を指摘しているのだが、この記事から重要な部分を引用しておきたい。
さらに、新型インフルエンザワクチンや子宮頚ガンワクチンのメーカーであるグラクソ・スミス・クライン社は、マラリアの新治療療法の開発などの具体的な事業でWHOと協力して支援している。
グラクソ・スミス・クライン社は、ニューヨークタイムズ社によってCSRの実績第一位として評価されたこともある会社であるから探せばもっと多くの協力をWHOとの間で行っている可能性が高い。
理念はあっても、カネがなければ、WHOも意欲的な事業は行えないのである。
そしていったん、支援を受けて事業を始めれば、スポンサーの意向は無視できなくなる。  

 早い話し、子宮頚がんワクチンを製造しているグラクソ・スミス・クライン社はWHOのスポンサーという関係のようだ。

 WHOが原子力分野でも独立性を失っていることは私も以下の記事で触れた。WHOという名称だけで信用してしまうのは危険というほかない。

国際原子力ムラという諸悪の根源
チェルノブイリの事実と日本のとるべき対応

 江戸川大学教授の隈本邦彦氏はワクチンムラという特殊な利権構造について指摘している。
インタビュー「被害を生みだすワクチンビジネス」

 製薬会社と医師の癒着は今に始まったことではない。ワクチンに関しても当然利権構造があるだろう。ちなみに3回のワクチン接種の費用はおよそ5万円と言われる。少女たちを対象に定期接種にできれば製薬会社の利益は莫大なものになる。

 村中璃子氏の記事には何度もWHOの見解が出てくる。ワクチンを製造している製薬会社がスポンサーとなっているWHOの見解を盾にワクチンの副反応を否定して接種を推し進める村中璃子氏と、被害を訴える患者を診察して治療に尽力している医師のどちらが信用できるだろうか? 私は間違いなく後者に軍配を上げる。

【1月19日追記】
 以下のtogetterは、HPVワクチンの副反応に関する資料や論文などがまとめられており、この問題を考える上で大変参考になる。
HPVワクチンと自己免疫反応

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