2017年5月24日 (水)

日本人は自民党が「立憲主義廃絶への一本道」を進んでいることを理解しているのか?

 今日(5月24日)の北海道新聞で、思想家の内田樹さんが「立憲主義 廃絶への一本道」と題して、半数以上の有権者が安倍政権を支持していることについて論じており、興味深く読んだ。東京新聞にも同じ記事が掲載されたようだ。

 内田氏は共謀罪が成立したなら、政府は市民が市民を監視し隣人を密告するシステム作るだろうと指摘している。監視社会をつくり市民が密告するシステムをつくれば、政府は労をせず政権に楯突く人物を共謀罪によって弾圧することができるだろう。まさに治安維持法の復活だ。

 内田氏は「私が特に興味を持つのは、特定秘密保護法、安保法制、共謀罪を経由してやがて改憲に至る文脈である。これは間違いなく立憲デモクラシーの廃絶と一党独裁をめざす一本道なのだが、なぜか『国民主権を廃絶する』と明言している政党に半数以上の有権者が賛成し続けている」と指摘したうえで、その理由について見解を述べている。

 内田氏の答えはこうだ。「戦後生まれの日本人は生まれてから一度も『主権者』であったことがない。家庭でも、学校でも、部活でも、就職先でも、社会改革を目指す組織においてさえ、常に上意下達の非民主的組織の中にいた」

 まさしくその通りだと思う。日本社会全体に蔓延しているのは「自分が損をしないように行動する」あるいは「自分が得をするように行動する」という意識ではなかろうか。つまり、「こうすべきだと思うからこういう行動をとる」のではなく、常に他者との競合関係の中で損得を基準に判断をすることが習慣になっているのが日本人なのだと思う。

 具体的に言うなら「嫌われないためにこうする」とか「評価してもらうためにこうする」という風に。だから個人の主体性というものがなく、常に他者の評価で自分の行動を決める。大人から子どもまでこうした判断の仕方が身にしみついているから、政治においても「主権者」の意識がないのだ。もっとも、これは裏返せば無責任ということでしかない。

 無責任といえば、福島の原発事故においても事故を起こした東電や、安全神話で国民を騙し国策として原発を押し進めてきた人たちは、事故から7年も経った今でも誰も責任をとっていない。福島の子ども達に甲状腺がんが多発しても、もはや報道すらろくにされない。結局、なにもかもうやむやにして再稼働することだけは必死だ。国民全体が無責任体質といえるのだろう。

 内田氏は、社会改革を目指す組織ですら上意下達だと指摘しているが、日本の組織では執行部にその他大勢が従っているだけの場合が多い。組織の構成員の大多数がリーダーや執行部におまかせなのだ。こういう組織は独裁的になりがちで、組織内部に上下関係が生じやすい。特に組織が大きくなるほど非民主的な組織になりがちだと私は捉えている。辺見庸氏なども組織に非常に批判的だが、私は「組織すること」が問題なのではなく、組織を構成する人たち個々の意識の問題ではないかと思っている。いずれにしても、社会改革を目指す組織が独裁的であれば、独裁政権とどう違うのかということになりかねない。

 内田氏はさらにこう指摘する。「日本の統治者のさらに上には米国がいる。米国の国益を損ない、不興を買った統治者はただちに『日本の支配者』の座を追われる。これは72年前から一度も変わったことのない日本の常識である。統治者の適否の判断において『米国は決して間違えない』という信ぴょうは多くの日本人に深く身体化している。それがおのれの基本的人権の放棄に同意する人たちが最後にすがりついている『合理的根拠』なのである」

 私には「自民党がやることに大きな間違いはない」あるいは「自民党以外には政治を任せられない」と本気で信じている人たちがそれなりにいるとしか思えないのだが、こうした思い込みが「米国は決して間違えない」という思い込みに通じているのではなかろうか。

 いずれにしても、日本人が主体性を持っていないが故に、安倍首相のような独裁者が現れたら容易に騙されてしまうのだろう。自民党を支持している人たちの多くは、自民党が「国民主権を廃絶する一本道」を歩んでいるという認識すらないのかもしれない。

 米国ではトランプ大統領の支持率はかなり低くなっているようだが、これは米国人の方が日本人より主体性があるということの表れだと思う。

2017年5月11日 (木)

原野の水仙

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 以前はゴールデンウィークの頃に道内のあちこちに野鳥などの調査ででかけた。この時期はクモの採集には早いが、キタコブシやエゾヤマザクラの花が咲き始めるし、芽吹き前の落葉広葉樹林の林床にはスプリング・エフェメラルと言われる早春の花々が可憐な花を咲かせている。民家の庭先には水仙やムスカリ、玉咲きサクラソウなどが咲き誇る。風はまだ冷たいものの、生き物たちの躍動を感じる季節だ。

 生物の調査が目的だから、行くところは人里からやや離れた山間地だったりする。そして、もはや原野としか言えないような荒地でしばしば目にするのが、目の覚めるような鮮やかな黄色い水仙の花だ。

 北海道の平野部には広大な耕作地が広がっている。そして、かつては「こんな所にも人が住んでいたのか?」と思うような山間地も開墾され畑や牧草地になっていた。たいていは川に沿って山間地へと耕作地が伸びている。人里離れた山間地にも、人々の生活があり、学校があった。人が住みつけば庭先に花を植える。学校を建てれば桜の木を植える。

 しかし、山間地ほど離農が進み、かつての耕作地はササや樹木に覆われて自然に戻りつつある。黄色い水仙は、かつてそこに人が住んで暮らしていたことの証だ。建物が撤去されても朽ち果てても、それらの植物は生き続けて毎年花を咲かせる。

 チューリップやムスカリはエゾシカの大好物だから、庭先に植えられていても食べられてしまう。しかし水仙は有毒植物だからエゾシカは食べない。かくして、人々が去ってからもしばらくの間、原野に黄色い水仙が生き続けることになる。ササや樹木にすっぽりと覆われでもしない限り、逞しく花をつける。

 40年ほど前の学生時代、探鳥旅行で北海道に何度かでかけた。当時の北海道は市街地から離れた辺鄙な場所でも、人が住んでいれば小さなお店(よろずや)と小学校や小中学校があった。否、辺鄙な場所だからこそ商店や学校があったのだ。バスに乗って景色を眺めていると、農耕地の中にぽつんと佇む小学校をよく見かけ何かほのぼのとしたものを感じた。しかし、今では過疎化が進んで小規模小学校は次々と姿を消し、農村地帯に住む子ども達はスクールバスで街の学校に通うようになってきている。

 廃校となった学校跡地は次第に草木に覆われ、古びた門柱と桜や水仙だけがかつての面影を偲ばせている。時代の流れとはいえ、寂しいものを感じずにはいられない。

2017年4月30日 (日)

化学物質過敏症は炭鉱のカナリア

 わが家では、洗剤は基本的に無添加の固形せっけんと粉せっけん。あとは掃除や洗濯に重曹を使う。これらがあればほとんどの汚れに対応できる。髪を洗うときも固形せっけんを使うし、セーターもせっけんで洗う。

 もともとは環境問題のことがきっかけでせっけんを使いはじめたのだが、洗剤類に含まれる香料にどんどん過敏になってしまったこともあり、香料入りの固形せっけんも使わない。香料の匂いで気持ちが悪くなったり頭が痛くなったりするのだ。それだけではない。化粧品や整髪料、ワックス、塗料類、たばこなどの匂いに対しても同じような症状がでるようになった。どうやら化学物質過敏症のようだ。さらに、化学物質とは言えないニンニクの匂いもダメになってしまった。

 子どもの頃は、匂いに対して特別に敏感だったという記憶はない。化粧せっけんの匂いも、シャンプーの匂いもさほど気にはならなかった。

 私が強い匂いが苦手だと気づいたのは東京に住んでいた20代の前半のことだ。当時、日本フィルハーモニー協会合唱団に参加していた。日本フィルハーモニー交響楽団ではオーケストラ付合唱曲の演奏に合わせて一般の人たちから合唱団の団員を募集していた(今でも続いているらしい)。私は友人と出かけた演奏会で団員募集のチラシをもらい、団員に応募した。週1回の練習を重ねて本番の演奏会で解散となる合唱団なのだが、その演奏会のときに化粧品の匂いで気分が悪くなってしまったのだ。

 演奏会では合唱団員はオーケストラの後ろにぎっしりと詰めて並ぶのだが、舞台は人々の体温とライトの熱気、そして化粧品の匂いが充満する。この匂いがかなり強烈で次第に気分が悪くなり、途中で舞台の袖に引っ込んで休ませてもらったことがあった。他の人たちは平気なのに、なぜ私はこんなに気持ちが悪くなってしまうのだろうという疑問が頭の中で渦巻いた。そして、自分が化粧品の匂いに人一倍過敏であることに気がついた。

 私はほとんど化粧をしないのだが、それからというもの冠婚葬祭などでごくたまに化粧をして車に乗ったとき、自分の化粧品の匂いで気分が悪くなった。自家用車の狭い車内で匂いがこもるとひどく気分が悪くなる。同乗者がたばこを吸っても同じで、窓を開けないと耐えがたい。ところが他の人はそうでもないらしい。その時には化学物質過敏症であるということは知らなかったが、最近になって自分が過敏症であることを認識した。

 化学物質過敏症という以上は天然の匂いは大丈夫かといえば、必ずしもそうではない。北海道ではおなじみの山菜であるギョウシャニンニクを採って車に持ち込んだときも、吐き気に襲われるようになった。ギョウジャニンニクの匂いはニンニクよりさらに強烈だ。北海道では戸外でバーベキューと言えばジンギスカンが定番なのだが、これにしばしばギョウジャニンニクを入れる。はじめのうちは私も少しくらいは食べることができた。ところが、食べたあとがいけない。自分の吐く息の匂いで気持ちが悪くなるのだ。以降、ギョウジャニンニクは食べないようにしているのだが、家族が食べ、夜中に息の匂いで気持ちが悪くなって耐えられなくなり、布団をもって別の部屋に逃げだしたこともある。そんなこともあってニンニク臭も過剰反応するようになってしまった。

 ワックスがけなども同じで、ワックスをかけた後はしばらく窓を開け放していないと頭が痛くなってたまらない。そんなわけで、今では香料と無縁の生活をしている。料理にもニンニクは使わない。

 先日、北海道新聞に化学物質過敏症の記事が何回か掲載されたのだが、私と同じような人は一定程度いるらしい。なるほどと思った。発症のメカニズムはよくわかっていないらしいが、花粉アレルギーなどと同様に、一定の限界を超える化学物質を取り込んでしまうことが関係しているらしい。

 私は若い頃から化粧はほとんどしなかったので、なぜ化粧品の香料で過敏症になったのか分からない。職場ではタバコの匂いがかなり苦痛だったが、父がタバコを吸っていたことが関係しているのかもしれない。昨今は乗り物は原則として禁煙になったのでとても助かっているが、飛行機やバスなどで化粧品や整髪料の匂いが強い人が近くにいるとかなり辛い。

 ところで、私のような過敏症の人は生まれ持った体質が関係しているのではないかと思えて仕方ない。たとえば、ハイリー・センシティブ・パーソン(HSP)という気質の人が知られているが、この気質の特徴の一つに、強い匂いなどの刺激に対して敏感であることが挙げられている。特定の物質に対する感受性が高いのだ。HSPの人は人口の約15~20%に見られるとされており、5、6人に一人はHSPだ。私は自己診断テストでは明瞭なHSPというほどではないが、傾向は比較的強い。子どもの頃に診断テストをやっていたら、間違いなくHSPに該当したと思う。

 ときどき体感で地震の前兆をキャッチする人がいるが、彼らの多くもHSPなのではないかという気がしている。て電磁波過敏症なども同じだろう。低周波音で体調が悪くなる人もそうかもしれない。私は地震の体感者でも電磁波過敏症でも(多分)ないが、匂いに対してはどうもかなり過敏な体質のようだ。

 過敏症は化学物質や電磁波が溢れるようになった現代の病だ。自然界にはない化学物質が人間にとってマイナスに働くことはあっても、プラスに作用することは考えられない。化学物質過敏症は、ある意味「炭鉱のカナリア」なのだ。

 現代社会は化学物質まみれだし携帯電話やWiFiの普及で日常的に電磁波にさらされる。5、60年前には考えられなかった状況になっている。過敏症の人は増え続けるだろう。化学物質過敏症は人類に警告を発しているのだと思う。

2017年4月27日 (木)

「共謀罪」の内容を知らないで賛成する恐ろしさ

 今日の北海道新聞に、『共謀罪内容「知らない」半数 全道世論調査 賛成48%、反対45%』という記事が掲載されていた。

 この調査によると、共謀罪について知らないという人が半数もいるという。ちょっとでも政治に関心を持っている人なら、共謀罪が現代の治安維持法と言われているほど問題だらけの恐ろしい法律であり、過去に3回も廃案になっていることくらい知っているだろう。

 それが今の国会で「テロ等準備罪」と名前を変えて提出され、安倍首相はいつものごとく成立に向けて邁進している。それにも関わらず「内容を知らない」人が半数もおり、30代以下では70%もが知らないというのだから驚きを禁じ得ない。しかも、知らないという人の方が賛成している人の割合が高いという。恐らくこのような人は「テロ対策」だと信じ、政府のやることに疑問を抱いていないのだろう。しかし、中身も知らないで賛成か反対かを判断してしまうということこそ恐ろしい。

 北海道新聞でも共謀罪の問題点についてはかなり力を入れて報道しているし、週刊誌などでも報じられている。今や、大半の人がインターネットを利用しているのであり、共謀罪について知ろうと思えばいくらでも知ることができる。それにも関わらず、「中身を知らないけれど賛成」という人が多いというのは、政治に関心がないということに他ならない。政治は政治家に任せておけばいいと思っているのかも知れないが、民主主義というものを全く理解していないに等しい。

 若者の政治離れは今に始まったことではない。若い人たちの間では「政治の話しをするのはウザい」というような雰囲気があるのではないかと思う。私の若い頃もそうだったけれど、日本の若者達は政治の話しを好まないどころか敬遠する。

 それでも、私が若い頃は社会的な活動に参加している人たちは一定程度いた。私も自然保護運動に関わってきたが、自然保護運動は熟年者だけではなく20代、30代の若い人たちによって支えられていた。ところが、今、自然保護運動に関わっている人たちの大半は高齢者だ。つまり、かつての若者がずっと続けているのであって、次世代がまったくと言っていいほど育っていない。恐らく、これは全国どこでも同じ傾向だと思う。

 だから、シールズの出現は大きなインパクトがあったが、彼らのような若者は全体からみればやはり少数派だ。そして、彼らを叩く人が溢れている。自分の意見を主張することすら叩かれてしまう、恐るべき国になっている。

 社会問題に目を向けようとしない若者が当たり前になり、共謀罪の中身も知らずに賛成してしまう。これはあまりに深刻な事態だ。この背景には、政治に無関心な若者をつくってきた大人たちの責任も大きい。

 たとえば、中学や高校に入れば多くの生徒は朝から夕方まで部活動に追われる。そして進学のための受験競争。社会のことについて考えるような時間的余裕はない。しかも、学校では嫌われないよう、いじめられないようにとSNSでの繋がりを求め、人間関係で神経をすり減らすような毎日。政治に目を向けるような精神的余裕もない。大学生になればアルバイトや就職活動に追われるし、就職先では長時間労働やパワハラがつきまとう。

 競争に追われ、自由時間を奪われ、人間関係で精神的に疲弊し、政治や社会問題に関心を持てるような状況ではない。大半の大人や子どもが「波風を立てない生き方」が良いと思い込み、事なかれ主義だ。部活、受験競争、SNS、就活、長時間労働、事なかれ主義・・・どれも大人たちが作りだしてきたものではないか。要は、「考えない人間」「事なかれ主義の無責任な人間」をつくりだしてきたのだ。そしてこの政治への無関心が、選挙にも行かない人たちを生みだしているのではなかろうか。

 共謀罪に賛成する人が、政府の「テロ対策」という口実を信じ、戦後の政治の大半を担ってきた自民党が国民に不利益な法律をつくることはなかろうと本気で思っているのなら、まさに政治を牛耳ってきた自民党の企ては成功したと言っていい。

 共謀罪のことを知らない人に知ってもらいたい。共謀罪とは、実際に実行しなくても二人以上の人が犯罪行為の相談をしたり計画をたてるだけで犯罪になるという法律だ。「考える」という行為が犯罪になりかねない。そして、その対象となる犯罪の範囲がとてつもなく広い。先日も話題になったが、森林法違反に該当するきのこ採りも対象になるし、著作権法違反も対象になる。テロとはおよそ関係がない違法行為について、二人以上で相談をしただけで犯罪になり得る。

 こういう法律がまかり通れば、市民が疑心暗鬼になり、周りの人の顔色を伺い監視をすることになりかねない。気に入らない人を密告する人も出てくるだろう。国民が委縮し、本音を語ることも怖れるようになるのではないか。考えただけでもぞっとする。

 一方で、公職選挙法、政治資金規正法、政党助成法などはすべて対象犯罪から除外されている。公文書電磁的記録の毀棄罪も除外、警察などの特別公務員職権濫用罪、暴行陵額罪も除外、と、政治家、官僚、警察などの公権力を私物化するような違法行為はことごとく除外されている。

 なぜこんな法律をつくりたいのかと突き詰めれば、政府に楯突く者を黙らせることが目的としか思えない。政権にとって都合の悪い人を監視し、共謀罪に該当する行為を探しだせば犯罪者に仕立て上げられる。こうやって国民から自由を奪い、独裁国家をつくりあげたいということだろう。独裁政治をするために、これほど都合のいい法律はない。

 共謀罪の恐ろしさを理解している大人たちは、せめて自分の子や孫に、あるいは身の周りの若者に共謀罪の危険性を伝えていく責任がある。テロ防止などと言うのは、政治に関心のない人たちを騙すための口実にすぎないと。

2017年4月14日 (金)

総理夫人付公務員を私物化した昭恵夫人の責任

 昨日のツイートを再掲しておきたい。

首相夫人付の国家公務員の責任に関する議論をツイッターで見かけた。彼女たちに責任がまったくないとは思わない。たとえば昭恵夫人の選挙活動に随行して選挙運動の手伝いをしたのは明らかに違法行為だろうし、本人たちに全く問題意識がなかったとは考えにくい。

昭恵夫人の私的な活動に同行したことも、公私混同であり適切な行動だとは思わない。しかし、仮に彼女たちが不適切だと認識していたとして、いったいどんな行動がとれたのだろうか? 昭恵夫人に「私的活動の補佐はできません」と言って断るということが容易にできる立場なのか?

あるいは上司に「昭恵夫人から私的活動への随行を求められているが、公務とはいえないので拒否したい」と相談したとして、安倍首相の言いなりになっている人たちに果たして認めてもらえただろうか? 悩みつつも、出向している身にとっては一時の我慢だと考えても無理はなかろう。

もし、そういう状態がどうしても我慢できないのなら、仕事を辞めるという選択肢しかないように思う。しかし、彼女たちは自分の意思で夫人付の秘書をしているのではなく命令によって配属されているのだから、そんなことで仕事を辞めねばならないというのは公正ではない。

この件でまず質さなければならないのは、公私混同して公務員を私物化していた昭恵夫人の責任だろう。5人もの公務員の秘書を付けて自由に使っていた以上、自分が公人と同然であることくらい自覚していただろうし、自覚していなかったなら非常識というほかない。

昭恵夫人とともに責任を負わねばならないのは秘書の上司だ。上司には部下の監督責任があるし、出張命令を出すのも上司なのだから、出張が適切かどうかの判断を下すのは上司の仕事だ。「部下が勝手にやった」などというのなら上司としての責任放棄であり上司として失格だ。

安倍首相をはじめ官邸の人たちも、夫人付の公務員が昭恵さんの私的活動にまで駆り出されていることは分かっていただろうし、それを黙認していたならやはり大きな責任がある。夫人付秘書の責任を考えるなら、彼女たち個人より彼女を使っていた人たちの責任の方が遥かに重いと私は思う。

昭恵夫人こそまず公私混同について認め、秘書や国民に謝罪する立場ではないか。自分のために働いてきた彼女たちを守るというのが昭恵夫人の取るべき行動だろう。ところが、公私混同が明らかになってからというもの、自分の非を認めるどころかどこかに雲隠れしてしまったようだ。

「総理夫人の私的活動に随行する」という公務員として不適切な行為をさせたり、それを許容したり黙認した者こそ大きな責任を負わねばならない。部下を守るべき立場の者が、あろうことに部下だけに責任を押しつけるのであれば、責任放棄であり人権侵害でありパワハラではないか。

今や、巷には自己責任論が溢れている。もちろん個人が判断したことの結果責任は本人が負わねばならない。しかし、上下関係が明瞭な組織においては、すべての判断が個人にあるわけではないし、すべての責任が末端の個人に帰結するわけではない。

森友学園問題も同じで、複雑に絡み合った利害関係の中で関わった人々それぞれに責任があると思うが、強い権限を持っている者ほど責任は重い。ところが、責任ある立場の官僚はだれ一人責任をとろうとはせず、籠池氏にすべての責任を押しつけようと躍起になっている。

何でも自己責任で終わらせてしまえば、より大きな責任を負っている人を見逃し、責任の小さい者だけに罪を押しつけることになりかねない。物事を大局的に捉えず、自己責任ばかりに目を向けると人権侵害に加担することになる。森友問題は広い視野で見ないと、本質を見誤ってしまう。

2017年4月 9日 (日)

森友学園問題で明らかになった右翼による政治の私物化

 森友学園問題は今年2月9日の国有地の8億円の値引き発覚報道から始まった。本来なら国有地という国民の財産がなぜ破格の値段で売却されたのかという疑惑を解明しなければならないはずだ。ところが、この問題はどうやら安倍政権にとってきわめて不都合なことのようだったらしく、2カ月たった今も疑惑はなにひとつ解明されないまま幕引きしようと必死になっている。

 どうやらこの森友学園問題は、安倍1強体制をつくりあげ改憲に向けてとんとん拍子に進んできた安倍政権にとって想定外の地雷だったらしい。学校法人森友学園理事長の籠池氏の教育方針に共鳴し懇意にしていた安倍首相夫妻だが、疑惑が発覚し、籠池氏が「安倍首相から100万円の寄付をもらった」との話しを暴露した途端、籠池氏を潰しにかかった。

 3月23日の籠池氏の証人喚問では、疑惑解明などそっちのけで籠池氏を偽証罪で告発するための追及の場と化した。さらに同志だったはずの日本会議も、籠池氏はすでに会員ではないと切り捨てた。籠池氏を利用して瑞穂の国記念小学院の開校を推し進めてきた人たちが、一斉に手のひらを返してしまったのだ。籠池氏の思想には100%賛同しないが、彼らの裏切りには唖然とさせられる。利益が一致するときは利用するが、不利益になれば簡単に切り捨てる。彼らは信頼関係で結びついているわけではない。籠池氏はそれを身にしみて理解しただろう。

 安倍首相は国会で「私や妻が(売却に)関係したということになれば、首相も国会議員も辞める」と言った。籠池氏と昭恵夫人付職員のファックスや手紙という証拠からは、安倍首相夫妻は土地の売買に関与していたとしか考えられないのに、「ゼロ回答」「公務ではない」と言い張ってシラを切り続けている。安倍首相が頑なに否定して支離滅裂な言い訳をすればするほど、反旗を翻した籠池氏側は徹底抗戦の姿勢を見せて泥沼化しているように見える。

 森友学園に関する公文書がすべて廃棄されたとは思えないのだが、国は「ない」と言って何も出さない。ここまでして隠すのは、安倍首相の政治生命がかかっているからに他ならない。

 その後、昭恵夫人に関してはいろいろな話しが飛び交っている。昭恵夫人は、政府による便宜供与の疑惑がもたれている加計学園が経営するこども園でも名誉園長を務めている。また、公務員の秘書を選挙運動に連れ回したり、私的な活動や旅行にまで同行させたというのだから、公私混同には呆れるばかりだ。たとえ法的責任がないとしても、道義的責任は免れないだろう。

 ところが政府は疑惑解明を拒み続け、その理由が完全に論理破綻しているのに誰も辞職をせずに平然としている。民主党政権時代、鉢呂経済産業省(当時)は「死の街」発言で辞任に追い込まれたが、森友学園事件では関係する公人は誰ひとり責任をとっていない。そして、疑惑をうやむやにしたまま共謀罪の成立に向けて突っ走っている。こうなるとすでに独裁政治というほかない。

 そもそも森友学園問題の発端は国有地の8億円の値引きだったが、本質はそこではない。アッキード事件とも呼ばれるようになった首相夫人も絡むこの事件の本質は、安倍首相の思想信条がまさに極右のそれと同じであり、日本の政治が日本会議をはじめとした極右団体に乗っ取られ安倍首相夫妻に私物化されているという現実だ。

 菅野完氏の「日本会議の研究」を読んだ人ならば、森友学園事件によって、この国の政治がすでに右翼に牛耳られており、民主主義などもはや「死に体」であることをはっきりと感じたと思う。

 ところが、おそらく多くの国民はそこまでの危機感を持っていないのではないかと思う。なぜなら、マスコミは8億円の値引き問題や100万円の寄付、安倍首相の言い訳は報じても、森友学園の瑞穂の國記念小學院の開校を後押ししていた右翼団体のことはほとんど報じないからだ。新聞の森友学園に関する記事にも「日本会議」とか「極右」という言葉がほとんど出てこない。日本のマスコミにとって「極右」とか「日本会議」という言葉はタブーになっているのだろう。これではネットで情報をチェックしている一部の人にしかこの問題の深刻さが分からないだろう。

 安倍1強政権とは結局のところ、自民党の議員が自分のポストや政治家生命を最優先して安倍首相に媚びへつらいイエスマンになっているゆえの産物だ。彼らにとって大事なのは国民ではなく自分の利益でしかない。安倍首相は信頼によって支持されているわけでは決してない。このような政権は、足元を掬われたときにいつまで持ちこたえられるのだろうか。

 おそらく多くの日本人は戦前・戦中のような国に戻りたいとも思っていないし、米国の戦争に協力するといっても自衛隊が軍隊になって協力するくらいにしか思っていないだろう。しかし安倍首相が目指しているのは国民から主権を奪い、国のために命を差し出すことを強要する国だ。森友学園問題がこのままうやむやにされ安倍1強政権がまかり通るなら、この国は一気に極右の独裁政権になり、国民から自由が奪われる日はそう遠くないと思う。

 私は日本人の最大の欠点は「空気を読んで波風を立てない」ことだと思っている。これが美徳であるかのように思っている人もいるようだ。しかし、言い替えるならば「自分の利益のために見て見ぬふりをする」ことだ。つまりは主体性がなく自己中であるということであり、安倍1強体制を支えている今の自民党の国会議員と何ら変わらない。日本が真の民主主義国家になれるか、あるいは極右の独裁国家へと落ちていくかは、国民が「空気を読んで波風を立てない」生き方を捨て、主体性を持てるかどうかにかかっていると思う。

2017年3月16日 (木)

安倍政権を支えている褒賞システム

 昨日の内田樹さんのツイートを見て、安倍首相のあの強引な姿勢がものすごく納得できた。内田さんの連続ツイートは以下。

 安倍首相が喜ぶことをする、たとえば「日本会議に入る」「靖国に参拝する」「教育勅語をほめたたえる」・・・それに応じて褒賞が与えられる。なんのこっちゃない、安倍首相はご褒美をあげることで、人を操っているのだ。

 安保法制のときの「人間かまくら」による強行採決が思い出されるが、ああいうことをやればもちろん褒賞の対象になるのだろう。稲田朋美防衛相などはきっと沢山のご褒美をもらっているに違いない。安倍首相の取り巻きにあれほど日本会議のメンバーが多いのも頷ける。安倍首相の任期延長を画策していたのもなるほどと思う。閣僚人事を見れば、納得するしかない。安倍首相の強気は、こうしたシステムによって支えられていたのだ。

 しかし、こんな子どもじみた褒賞システムに大の大人が安易に乗っかりちやほやされていると思うと、気分が悪くなる。いったいこの人たちはどこまで主体性がないのか! どこまで自分のことしか考えていないのか! こんな人たちは二度と政治家にしてはならないと思う。

 森友学園事件にしても、菅野完氏・籠池氏の爆弾発言によって裏が少しずつ見えてきた。この問題はもちろん籠池氏による詐取疑惑だけでは済まされない。森友学園事件の背景には間違いなく日本会議などの右翼団体と政治家、官僚が深く関わっている。しかも彼らはご褒美目当てに安倍首相が喜ぶことをやったということなのだろう。安倍首相は自分の思想の実現のために、自分に仕える政治家や官僚、そして極右組織と組んで動いていたがゆえ、平然と強行路線を突っ走っていたのだ。

 政権内では醜い責任逃れが繰り広げられている。恐らく、今安倍首相は相当にうろたえているだろう。そして対策に必死になっているに違いない。さて、今までのように取り巻きたちは安倍首相を庇いつづけるのだろうか? もし安倍首相が持たないような事態になれば、褒賞システムなど何の意味もなくなるだろう。今後の成り行きによっては、これまで安倍首相を持ちあげ擁護してきた人たちも態度を翻すかもしれない。

2017年3月10日 (金)

原発は地震・津波対策をすればいいというものではない

 今日の北海道新聞のトップ記事は「規制委、北電見解認めず 泊隆起『地震の可能性も』」とのタイトルで、原子力規制委員会が泊原発の立地している積丹半島沿岸の地形隆起は地震による可能性があるとして、審査再会を北電に伝えるという内容だった。

 北電はこれまで泊原発の周辺の隆起地形について、「地震性ではない」と主張してきたのだが、規制委は北電の主張を認めないという判断をした。

 泊原発に関して、北電は2004年の留萌南部地震と同程度の地震が起きるケース想定して最大620ガルの地震動、最大12.63メートルの津波想定してきた。しかし、今回の規制委の判断によって、北電の想定が認められない可能性が高くなった。泊原発の周辺の隆起地形が地震によるものだという説は、北海道大学大学院名誉教授で地理学者の小野有五氏がかねてから主張していたことだが、北電は地震隆起説を排除する合理的な説明ができず、規制委も地震隆起説を否定できないのだ。

 今回の規制委の判断によって、泊原発の再稼働は確実に遅れることになるだろう。とりあえず規制委はまっとうな判断をしたと思う。

 ただ、いつも思うのは、原発は一度過酷事故を起こしたら取り返しのつかない破滅的な事態を招くわけで、日本のようにしばしば巨大地震や大津波に襲われる国において100%安全な原発などあり得ないのではないかという疑問だ。これについては「さつきさん」の以下の記事が参考になる。

 電力業界が模索する原発の確率論的地震ハザード審査の危険性 

 福島第一原発の事故は3基もの原発がメルトスルーし、チャイナシンドロームという最悪の事態を招いてしまった。先日の2号機のロボットによる写真撮影や線量測定で、溶融燃料の状態が確認できないばかりか、人も近付けない高線量であることがはっきりした。現時点では溶け落ちた核燃料を取り出す技術はなく、お手上げ状態だ。プールの燃料がどうなっているのかも分からないし、取り出しも極めて困難としか思えない。東電の廃炉に向けた行程表など、絵に画いた餅であることは間違いない。しかも、汚染水はずっと垂れ流し状態で止める術もない。

 チェルノブイリでは石棺で大量の放射能の放出は抑えられたが、福島は石棺にもできず、どうみても史上最悪の原発事故が6年間も続いているのだ。太平洋の汚染は、海の生き物に相当の影響を与えるに違いない。とてつもなく深刻で恐ろしい事態になっている。

 原発とは、ひとたび過酷事故を起こせばこういう壊滅的な事態を引き起こす。もし、再び同じような過酷事故が起きれば、日本は滅亡の危機に瀕するだけでなく、世界中に迷惑をかける。

 原発の稼働にあたって、どれほど耐震基準を高めて対策をとったところで、100%安全などということは考えられない。昨年の熊本地震では最大で2.2メートルもの横ズレが生じたとされる。もし原発直下でマグニチュード7クラスの地震が起きて2メートルものズレが生じたら、技術的に可能な限り耐震性を高めても耐えられるとは思えない。アウターライズ地震が正断層で起きれば、東北地方太平洋沖地震のときより遥かに高い津波に襲われると言われているが、もしそのような津波が起きたなら今の防潮堤では浸水してしまうだろう。

 100%の安全が確保できないのなら、耐震基準を高めるというよりも原発そのものを止めるという選択しかないと思う。地震、津波、火山、台風など自然災害が頻発する日本において、やはり原発という選択はしてはならなかったのだと思わずにはいられない。

 明日であのおぞましい原発事故から7年目になる。あの原発事故は今も現在進行形であり、大量の放射性物質を垂れ流し続けていること、史上最悪の手のつけられない事故であることを忘れてはならない。

2017年2月13日 (月)

インターネットという凶器

 私はもともとアナログ人間で、パソコンやインターネットが普及しはじめた頃もすぐに飛びつく気にはなれずに様子を見ていた。なぜなら、ちょっとした手違いや故障などで文書やデータなどが全て消えてしまうのではないかという恐怖があったからだ。

 しかし、インターネットが普及して周りの人が次々と使うようになると、メールが使えないと他の人たちとのやりとりに参加できないし、インターネット上の情報も得られず不便を感じるようになった。また、講演会や学会での発表ではパワーポイントが必須になってきた。そんなわけでパソコンやインターネットを利用せざるを得なくなり、アナログ人間などとは言っていられなくなった。

 インターネットの発達によって、私たちの生活は格段に便利になった。検索をかければすぐにいろいろな情報が手に入るし、新聞やテレビでは得られないニュースや情報も知ることができる。家に居ながらにして買い物ができるし、学会誌などの掲載された学術論文などもどんどんネットに公開されるようになり、文献の入手も楽になっている。

 しかし、利便性追及の裏には必ずといっていいほど負の部分が潜んでいる。インターネットの発達によって、コンピューターウイルスの感染や個人情報の漏えい、嫌がらせ目的の誹謗中傷などに日々晒されるようになった。しかし、それとは比べ物にならないくらいとんでもなく恐ろしい欠点があるのだ。それを思い知ったのが以下の記事だ。

 「テロは口実」 映画『スノーデン』と酷似する日本 

【岩上安身のツイ録】「ここに目覚めた人がいる!」―― 映画「スノーデン」の監督オリバー・ストーンが岩上安身の質問にビビッドな反応!!スノーデンが明かした米国による無差別的大量盗聴の問題に迫る!! 2017.1.18 

 映画「スノーデン」は見ていないが、事実に基づいて作られているのは間違いないと思う。今、私たちはインターネットを利用した監視社会に取り込まれており、もはや世界はサイバー戦争に突入しているという現実だ。トランプ氏が大統領選で勝つようにロシアが仕組んだと言われているが、あらゆるところでネットによる監視と情報収集、情報操作やサイバー攻撃がはじまっている。

 ドイツのメルケル首相の携帯電話が盗聴されていたことが明るみになったが、国の要人は米国に盗聴され監視されていると見るべきだろう。そればかりか、米国では市民のメールが盗み読みされ、インターネットの閲覧履歴を見られ、交友関係まで探られている。

 もちろん、安倍首相が進めようとしている「共謀罪」も、米国と同じ監視社会を目指している。もし、「共謀罪」が成立したなら、日本国民は監視対象となり政府に楯突く人は間違いなく監視されることになるだろう。しかも日本はマイナンバーで国民を管理しようとしている。共謀罪が成立したら独裁国家になるのは容易いし、真実を伝えようとする告発者は口を封じられる。共謀罪の「テロ防止」などというのが口実に過ぎないということをスノーデン氏は身を持って警告している。

 それだけではない。岩上安身さんは、こんなことを書いている。

スノーデンは、日本の横田基地内で働いていた頃を述懐して、NSAは日本でも盗聴をしていたと証言している。その内容についてスノーデンの言葉を、ストーン監督は映画の中でこう再現する。「(日本への)監視は実行した。日本の通信システムの次は、物的なインフラも乗っとりに。ひそかにプログラムを、送電網や、ダムや、病院にも。…もし日本が同盟国でなくなった日には、彼ら(日本)は終わり。マルウェア(不正な有害ソフト)は日本だけじゃない。メキシコ、ドイツ、オーストリアにも」。こうしたスノーデンの言葉に、映画では日本列島から電気の灯りが消えてゆく、全電源喪失のイメージ画像が重ねられる。

 これが事実なら、インターネットを悪用して特定の国のインフラを停止させ壊滅状態に追い込むのは簡単なことだ。もちろん米国はこのマルウェアの件は事実だとは決して認めないに違いない。しかし、大半のインフラがコンピューターで制御されている現代において、これは核戦争と同じくらいのインパクトがある恐怖だ。原発をメルトダウンされることだって可能だろう。一国をボタンひとつで壊滅状態にできる。まさしく「サイバー戦争」の時代に突入している。

 もちろんこんなことを実行したなら米国は世界から糾弾され信用は地に落ちる。しかし、マルウェアが絶対に起動しないという保証もない。日本が米国との同盟関係を解いたなら、マルウェアの恐怖にさらされる。さりとて米国の望むように共謀罪を成立させ平和憲法を改悪したなら、日本は米国に思いのままに支配され奴隷状態になるだろう。オリバー・ストーン監督は「日本は米国の人質」と言っているそうだが、まさに、追い詰められた状態ではないか。

 インターネットは使い方によっては簡単に凶器となり、人々の命まで簡単に操作できる。のほほんとインターネットの利便性に浸っているどころの話ではない。原子力が平和利用の名のもとに原発という凶器になったように、インターネットも同じ道をたどるのかもしれない。

 利便性を追求してきた人類に襲いかかるのは、サイバー戦争による自滅なのだろうか? それとも核による自滅なのだろうか?

 これを避けるためには人々が競いあうのではなく協力的な社会をつくっていくしかないと思うのだが、果たしてそれが可能なのだろうか。私たちには、これを何とか食い止める良心と時間が残されているのだろうか。

2017年2月 9日 (木)

誤解される「嫌われる勇気」

 先日書いた「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」でもちょっと触れたが、テレビドラマ「嫌われる勇気」の主人公、庵堂蘭子の振る舞いはアドレリアン(アドラー心理学を実践している人)とは言い難いという意見があるらしい。私はテレビを見ていないし、ドラマ制作者の意図も分からないので、この点について言及するつもりはない。しかし書籍「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著)のタイトルが、時に誤解されているのではないかと感じることがある。

 書籍の「嫌われる勇気」は、自己主張して他人に嫌われることを奨励しているわけではない。他人に嫌われることを怖れ、他人に合わせてしまうのは不自由な生き方であるから、自分の人生を生きるためには「嫌われることもいとわない勇気」も必要だと言っているのだ。これは本を読めば容易く理解できることだ。他人に合わせたり、他人の期待に応えるのではなく、自分の人生を生きるべきだというのが書籍「嫌われる勇気」のメインテーマでもあるのだろう。

 他人の人生ではなく自分の人生を生きるというのは、いわゆる「課題の分離」のことを指している。ここに軸足を置いているから、本の内容も「課題の分離」の比重が多くなっているのだろうと私は理解している。

 アドラーは「人生上のほとんどの悩みは対人関係である」と言っているそうだ。私自身の経験を振り返ってみても、人間関係のトラブルの大半は他者の課題に土足で踏み込んでしまうことからくると実感している。嫁と姑のトラブルも、家族間のいさかいも、基本的に他人の課題に土足で踏み込むから起きる。課題の分離ができていれば人間関係におけるトラブルやストレスは激減するだろう。

 「横の関係」つまり「人はみな対等」という意識を持ち、常に他人を尊重していたなら、他人に命令口調で接したり、意見が違うからといって見下したり誹謗中傷したりもしない。

 課題の分離とは、他人の課題に土足で踏み込まない(他者を尊重する)ということと、自分の課題に他人を踏みこませずにトラブルを回避するという二つの側面がある(協力をしない、あるいは協力を拒否するということではない)。そして、「課題の分離」ができるということは、「人はみな対等」という「横の関係」で人間関係を捉えていることを意味する。「課題の分離」と「横の関係」は切り離せない。

 これに対し、人間関係を「縦の関係」で捉えている人は、他者に対して支配的であったり、あるいは依存的であったり、また恨みや妬みが強く嫉妬深かったりする。

 他人から何を言われようと(嫌われても)も自分の課題には絶対に踏み込ませないという人は、一見「嫌われる勇気」があるように見える。しかし、自分の課題には絶対に踏みこませないが、他人の課題には土足で踏み込む(命令したり、見下したり、憎んだりする)ということであればその人は「縦の関係」で生きている。また、事実誤認や誤解について丁寧に説明しても一切聞く耳を持たず自分が絶対に正しいと信じて我が道を邁進する人は、自分の誤りを認めない、あるいは他人を信用しないという点で独善的であり、やはり「縦の関係」で生きているのだと思う。

 私は、書籍タイトルの「嫌われる勇気」の意味するところは、「横の関係」の生き方をするためには、時として「嫌われる(こともいとわない)勇気が必要」ということだと理解している。だから、「縦の関係」の生き方の人が独善的な言動をして嫌われたとしても、「嫌われる勇気」があるということにはならない。

 たとえばトランプ大統領はどうだろう。トランプ氏の差別発言や虚偽発言に対しては多くの人たちが批判している。大統領の就任式での反対デモを見ても分かるが、彼は明らかに多くの米国民に嫌われている。しかし、当人は開き直って平然としている。彼は自分の主張を貫いて嫌われているわけで、「嫌われる勇気」があるように見える。

 しかし、自分と異なる意見を言う人をこき下ろす態度は、完全に他者を見下している。しかも自分を批判した人に対してはすぐに反撃する。理論的に反論するなら分かるが、嘘を言ってでも攻撃する。非常に感情的で、すぐに怒りをぶちまける。実に支配的だ。彼は異なる主張に対して話し合いで解決する姿勢がほとんど見られず、どうみても「縦の関係」で生きている人だ。彼の勇ましさは、書籍「嫌われる勇気」で言うところの「嫌われる勇気」とはほど遠く、傲慢にしか見えない。

 本で言わんとしている「嫌われる勇気」の意味を理解せず、タイトルの「嫌われる勇気」という言葉だけを切り取って、単に傲慢なだけの人を「嫌われる勇気がある」と評してしまえば、誤解を生じかねない。

 書籍「嫌われる勇気」には承認欲求のことも出てくる。これも誤解している人がいるようだ。書籍「嫌われる勇気」では「承認欲求を否定する」と表現しているのだが、これは「承認欲求」という事実や「承認」を否定しているわけではない。「他者に認めてもらうことを目的に行動してはならない」という意味だ。これは、嫌われないために行動(努力)するというのとほぼ同義だろう。だから「承認欲求の否定」も「課題の分離」と密接に関わっている。

 アドラー自体は承認欲求という言葉は使っていないようだが、だからといって「承認欲求を否定する」という表現が、アドラー心理学ではないということにはならない。

 アドラー心理学の最終目的は共同体感覚にあるという。この共同体感覚を身につけるには「横の関係」を築かなければならない。横の関係を築くためには「課題の分離」をする必要がある。また共同体の中で人々が協力関係を築くことが共同体感覚につながるのだが、その前提としても「課題の分離」は不可欠だ。つまり、課題の分離があってこそ支配でも依存でもない協力関係が持てるし、共同体感覚を身につけることができる、と私は理解している。

 書籍「嫌われる勇気」は、共同体感覚を身につけるための基本である「課題の分離」に力点を置いた書籍だと私は思っている。そして、続編の「幸せになる勇気」が補完して核心へと誘導する形になっている。この2冊の本は青年と哲人の対話による物語に仕立てられているゆえに、アドラー心理学を全面的にカバーしているとは言えないかもしれない。しかし、だからといって「嫌われる勇気」が「正統なアドラー心理学ではない」という考え方には賛同できないし、学会で論争するようなことでもないと思う。

 つい最近、向後千春さんの「人生の迷いが消える アドラー心理学のススメ」(技術評論社)を読んだ。この本は他の心理学の考え方も紹介しながらアドラー心理学を分かりやすく解説していて、「嫌われる勇気」には抵抗感があるという方にも読みやすいと思うし、日常生活でのトラブルの解決にも役立つ本だと思う。

 アドラー心理学を身につけ実践するというのは確かに難しい。なぜなら、日本では家庭も学校も職場も「縦の関係」ばかりであり、このような環境の中で「縦の関係」のライフスタイルを選びとってきた人が大半だと思うからだ(私自身は若いときから人はみな対等という意識を持っていたので、アドラー心理学への抵抗感はない。もちろんだからといってきちんと実践できているわけではないが)。「縦の関係」が染みついている人たちが、ライフスタイルを変えるのは容易なことではない。ただ、向後さんの本はそのような人たちに対しても抵抗が少なく理解しやすい書き方になっているように感じる。

 岸見さんも向後さんも、野田俊作さんからアドラー心理学を学んだ方だが、同じアドラー心理学の解説をしていても人によって伝え方や語り口は違う。哲学者である岸見さんのアドラー心理学は哲学的視点も含んだ岸見流だろうし、向後さんは向後流といってもいいのだろう。おそらくアドラー心理学を学び実践している人々はそれぞれ独自の理解でアドラー心理学を捉えていると思うし、誤解がない限りどれが正しいとか正統だということはさほど意味がない気がする。学問というのは次世代に引き継がれるなかで修正されつつ発展していくものだ。

 ただし、「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問」にも書いたように、アドラー心理学を自ら実践しようとはせず「他人を操作するために使う」ということであれば、それはアドラーが望んだこととは正反対のことだろうし、似非アドラー心理学と言われても仕方ないと思う。

【2月13日追記】  野田俊作さんのこちらの記事によると、「課題の分離」「縦の関係・横の関係」などといった表現はアドラー自自身は使っておらず、アドラーの後継者による概念とのことだ。そうした言葉がアドラーの思想を分かりやすく端的に言い変えたもので、すでに一般化されている概念である以上、アドラー自身による表現であるかどうかに拘ることに意味はないと思う。

【関連記事】
アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問 
アドラーのトラウマ否定論について思うこと 
野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う

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