2017年10月 5日 (木)

希望の党の結成で暗黒時代がやってくる

 民進党の解党と希望の党への合流の報道には驚くと同時に、自分の認識の甘さを痛感した。

 今回の合流劇を裏で仕切っていたのは小沢一郎氏であることはほぼ間違いない。小沢氏は、近年は山本太郎氏と組んでかなり左派と協力的なイメージを作っていた。そして野党が結集して小選挙区で候補者を一本化し、比例代表では統一名簿をつくるという「オリーブの木」構想を提案していた。この共闘を民進党・自由党・社民党・共産党の野党共闘と捉えていた人も多かったのではなかろうか。しかし、小沢氏の考えていた野党共闘とは共産党を除いた保守政党による共闘だったのだ。今回の合流劇でそのことを思い知った。

 小沢氏といえば以前から新自由主義を支持してきた人だ。小選挙区制の導入にも関わっていたし、湾岸戦争のときには自衛隊の派遣を主張した。タカ派の人物だから私も警戒は解いていなかったが、山本太郎氏の活躍などで警戒がやや緩んでいたのも事実だろう。さらに陸山会事件での不可解な強制起訴と無罪判決で冤罪被害者というイメージも広がり、自由党支持者はそれなりにいたように思う。

 安倍首相の強権政治を倒すために、ここ数年は野党4党の共闘による政権交代が頭に刷り込まれていたけれど、以下の二つの記事にあるように、小沢氏がずっと狙っていたのは保守VS保守による政権交代であり二大政党制だ。

自民党VS希望の党、烏合(うごう)の衆による権力争い、「反自民」よりも「反共産」で結束・結党(MEDIA KOKUSYO)

小沢が前原や小池新党と組み、保守新党作りを画策。前原、涙ぐましいほどの小沢G擦り寄り(日本がアブナイ!)

 後者の記事に詳しく書かれているが、小沢氏はこの保守VS保守の二大政党制をつくるためにかなり前から考え方の近い前原氏に目をつけていたらしい。前原氏も記者会見で「(平成24年12月に)下野してから、ある方を通じて小沢先生とお会いするようになり、何回も何回も食事をしたり、色んな話をさせていただく中で、自民党の権力者であったことも踏まえて素晴らしいアドバイスを多々いただいたし、この間も(希望の党との合流について)中身は別にして色んなアドバイスをいただいてきたのは事実だ」と語っている(こちらの記事参照)。

 自民党が民主党から政権を奪回して以降、小沢氏と前原氏は政権交代に向けて話し合いを重ねてきたのだろう。二人の共通認識は、保守政党の共闘による政権交代だったわけだ。前原氏は民進党の代表選挙でも共産党との共闘を否定していたが、それはもちろん小池新党との合流を念頭に置いてのことだ。

 昨年、小池百合子氏が自民党を大差で破って都知事に当選。小沢氏は念願達成のために小池氏に新党結成を持ちかけ、民進党と自由党の合流を提案したというのが真相ではなかろうか。一連の流れから、この策謀を主導したのは小沢一郎氏としか考えられない。

 希望の党との合流に関して私がもっとも驚いたのは、前原氏が9月28日の両院議員総会で、民進党からは公認を擁立しないとか、希望の党との交渉は前原氏に一任するなどの条件を一方的に提案し、事後承諾を得るというやり方をとったことだ。合流そのものも党の人たちとの話し合いの中で決まった方針ではない。しかも、前原氏は事前に小沢、小池両氏と三人で話し合いを持っていたという。政権交代を旗印に、組織の代表がここまで裏で勝手に進めて仲間に事後承諾を取りつけるというやり方に驚きを禁じ得ない。これに関しては批判されるのも当然だと思う。

 結局、前原氏の説明した「候補予定者全員の公認」は反故にされ、大きな反感を買うことになった。民進党議員から「トロイの木馬」などという言葉まで飛び出してきている中で小池氏が警戒するのは当然で、小池氏によるリベラル排除は当然の成り行きだろう。10月2日、枝野幸男氏は民進党に離党届を出して立憲民主党の立ちあげを公表したが、このようなやり方をされた以上、これも当然の成り行きだと思う。

 民進党は民主党時代から内紛が絶えなかったが、左派から右派まで幅広い党員を抱えた党の末路は分裂しかないのだろう。枝野氏と小沢氏は犬猿の仲と言われていたが、枝野氏は小沢氏の目的や企てを察知して警戒していたに違いない。陸山会事件にしても、検察側の起訴に無理があったのは承知しているが、無罪判決が出たからといって小沢氏が何ら関わっていなかったと断定はできないし、グレーのままだと私は思っている。

 枝野氏の立憲民主党立ちあげで、ようやく保守政党を除いた野党共闘へと向かっている。今回の合流騒動で小沢氏と前原氏が策士であることがはっきりしたし、立憲民主党の結党で気分的にはすっきりした。しかし、総選挙に目を向ければ、行く手には暗雲が垂れこめている。

 すでに希望の党の方針が自民党とほとんど変わらないことが明確になってきたし、自民党も希望の党も互いに連携する可能性を否定していない。前原氏が合流の旗印とした政権交代など茶番でしかないことが早くも露呈してしまった。それでもマスコミは自民党と希望の党との闘いであるかのように騒いでいる。これにつられて希望の党に投票する人たちも一定程度いるだろう。

 希望の党がそれなりの議席を確保して野党第一党になれば、小沢氏や前原氏の念願であった保守による二大政党制になり、どちらが政権をとっても安定した保守政治が続く。どちらの党も改憲派だから、北朝鮮の脅威などを煽りたて、すぐにでも改憲に向かって動き出すだろう。希望の党がさほどの議席を獲得できなければ、自公と連立政権を組む可能性が高い。どちらに転んでも改憲、戦争参加へとまっしぐらであり地獄が待ちうけている。こういう流れをつくりだしたのが小沢一郎氏であることは忘れてはならないだろう。

 もっとも私は小沢氏を強く批判するつもりもない。小沢氏は自分の信念に従って行動しているだけなのだろうし、保守の二大政党制が彼の念願であったことは公言しているのだから、今回の合流劇は陰謀でも何でもない。むしろ、小沢氏の日頃の言動から今回の画策を見抜けなかったことの方が問題だ。

 前掲した「日本がアブナイ!」というサイトの「小沢が前原や小池新党と組み、保守新党作りを画策。前原、涙ぐましいほどの小沢G擦り寄り」という記事は民進党の代表選の前日である8月31日に書かれたものだ。著者の方はこの時点ですでに民進党と自由党が小池新党と一緒になって保守新党をつくることを見抜いていた。小沢氏や前原氏の言動からこれを見抜けず混乱した私の方がマヌケだったと言うほかない。

 こうなったら立憲民主党と共産党、社民党の共闘を支援していくしかない。そして急ごしらえの独裁的な希望の党が弱体化し消滅していくことを願うしかない。何しろ、今回の合流劇は前原氏が自分の目的達成のために小池氏の知名度や人気を利用しようと企てたわけだし、小池氏も民進党の右派議員と資金を利用しようとしたわけで、自分の利益のために相手を利用しようとして集まった人たちが互いに信頼し協力しあって上手くやっていけるかどうかは甚だ疑問だ。

 枝野氏は「希望の党の理念、政策は、私たちの政策とは違うものです。また、いまの政治状況としては保守とリベラルは対立概念ではないと考えています。今この国に必要な政治的な対立軸があるとするなら、トップダウンvsボトムアップ、一部の人たちの政治か草の根かという軸。私たちは後者の側に立つ」と語っている。これは民主主義の基本だが、この基本さえ守られていない組織は多い。共産党も基本的にはトップダウンの組織だ。どんな組織でもこの基本ができていないと独裁的になるが内部紛争になる。枝野氏がこれを強調したことは強く支持したい。

 今回の合流劇で感じたのは、人は何と騙されやすい生き物かということだ。国会には自分の利益のために国民を騙すことに長けた議員がひしめいている。国民が平気で人を利用したり騙すような人たちを見抜く目を持たない限り、簡単に独裁政権に支配されてしまう。日本が平和を保てるかどうかも、私たちが誠実で信頼できる政治家を見極めることができるかどうかで決まってくると思う。

2017年10月 2日 (月)

「敏感で傷つきやすい人たち」を読んで実感した自分の過敏気質

 HSPという概念を知っている人はそれほど多くはないと思う。HSPとはHighly Sensitive Personの略語で、ユング派の心理学者であるエレイン・N・アーロン博士が提唱した概念だ。アーロン博士によると人口のおよそ2割が感受性の高いHSPであり、この過敏な性質は生得的なものだという。私もこHSPについて知ったのは3年ほど前のことだ。HSPかどうかを調べるには診断テストがある。私はアーロン博士版ではHSPかどうかぎりぎりの点数になるのだが、イルセ・サン版だと明らかにHSPとなる。

 先日、岡田尊司著「敏感で傷つきやすい人たち」(幻冬舎新書)を読んだのだが、この本を読んで、改めて自分がHSPであることを実感した。岡田氏はご自身がHSPでもある精神科医だ。

 本書では過敏性についての分析やメカニズムなどの解説にかなりのページが割かれている。本書には独自の過敏性チェックリストがあり、これによって過敏性のタイプを知ることができる。このチェックテスト(過敏性プロファイル)では感覚過敏、馴化抵抗、愛着不安、心の傷、身体化、妄想傾向、回避傾向、低登録の8つのチェック項目を挙げている。これらについてチェックしていくことで過敏性の傾向や程度が分かるのだが、具体的なことは本書に譲りたい。

 岡田氏によると、過敏には神経学的過敏症と心理社会的過敏症があるという。前者は遺伝的要因や生得的要因が強いと考えられ、後者は養育要因や社会的体験などが強く影響していると考えられている。私の場合は、神経学的過敏症が強いようだ。つまり、アーロン博士のいう遺伝的な要因によるHSPと言っていいだろう。

 過敏な人にとってもっとも重要なのは、過敏な自分とどのように向き合っていくかということになるが、その対処法が終わりの第7章「過敏な人の適応戦略」と第8章「過敏性を克服する」で紹介されている。

 岡田氏は「その人を縛っているものは、思考や行動のパターン、価値観や認知の偏りとなってその人に組みこまれた無意識的で自動的なものなので、その歪みは自覚されにくい」という。これを自覚し、自分の弱い点や悪い点に目を向け、無意識の縛りから自由になれれば自分で幸福を手に入れることができる。

 具体的には、肯定的認知を高めるためのエクササイズをする、他人に親切にする、感謝をする、二分法的認知(全か無かの両極端な認知)を克服するなど。ただし、激しい怒りや憎しみに捉われているなどして肯定的な認知自体を受け付けないような人は、第三者的な目で自分を見られるようになる必要があるという。マインドフルネスなどにも言及している。さらに、安全基地の機能を高めることの重要性を説いている。そして、最後に、「依存も自立も必要」だと主張する。

 こうした対処法は、過敏性への対処に限らず多くの精神科医や心理士などが提唱していることと共通する。

 たとえばアドラー心理学に置き換えるなら、子どもの頃に自ら選びとったライフスタイルを自分で選び直すということに他ならない。そのために必要なのは、欠点も含めた自分自身を認めるという自己受容だ。「親切にする」というのは他者貢献であり他者信頼でもある。「安全基地」は所属感、共同体感覚に通じる。「依存も自立も必要」という主張は、言いかえれば自分一人ではできないことは助け合うということだ。細かい点では違っていても、ありのままの自分を認め、自分を変えることで問題を克服でき幸福になれるという考え方は同じだ。

 結局、不平不満ばかり言ってその原因をすべて他人や環境のせいにし、頑として自分を変えようとしない人は穏やかで幸福な人生を生きることはできない。それはHSPであれ、非HSPであれ同じだが、とりわけ敏感な体質の人はその感受性の高さゆえ、不安神経症になりやすかったり体調を崩しやすく「生きづらさ」を感じやすいということになるのだろう。

 私自身、子どもの頃のことを思い出してみると内向的で引っ込み思案であり、一人で本を読んだり趣味の世界に没頭したりするのが好きで、典型的なHSPだった。小学校から高校まで個を尊重しないで競争ばかりさせる学校は一貫して嫌いだった。よくお腹を壊したり便秘をしたりとお腹の調子も安定せず、大人になってからは過敏性腸症候群になった。また、こちらにも書いたが化学物質過敏症だ。

 私の母も典型的なHSPだ。父はそれほどではないと思っていたのだが、文学や音楽、芸術を好み(若い頃はイラストなども描いていた)、山歩きが好きだった父もHSPだったのではないかと思い当たった。定年前に退職したのも、その気質と関係していたのかもしれない。

 自分がHSPだとはっきり自覚することで、自分が動揺してしまうことでも周りの人たちが平然としていられる理由が理解できるようになった。旅行先で寝付けなかったり、大勢での集まりのあとなど神経が高ぶって眠れないのが常だったのもHSP気質が関係していたのだ。今も大勢での宴会は好まないし、登山や旅行なども少人数や一人でしか行きたいとは思わない。

 多くのHSPは「生きづらさ」を抱えているというが、感受性の高さゆえに他人からのちょっとした一言に傷つきやすいのだ。そして他人に傷つけられることを恐れて自己主張をせずに他者に合わせたりする傾向が強まり、それがさらに生きづらさを生んでしまうことになるのだろう。

 私も振り返れば嫌なことや辛いことはいろいろあった。ただ、私はそれが原因で自分が不幸だと思ったことはないし、さほど「生きづらい」と感じた記憶はない。そもそも「生きづらい」という言葉が今一つピンとこない。賃金格差や苛酷な労働などで辛いなら、それは社会システムの問題なので個人に内在する「生きづらさ」とは分けて考えるべきだろうし、ストレスによる苦痛なら自分で何とかするしかない。

 たぶん子どもの頃から自分の過敏性を当たり前のものとして受け入れつつ、自分の世界をマイペースで楽しんできたことが大きいのだと思う。他人の顔色を窺ったり他人と比べるというのが大嫌いで、自分の意見を言うことで他者から嫌われることは厭わない。子どもの頃から「人はみな対等」と思ってきたし、自分の良心にしたがって自然体で過ごすような生き方をしてきたつもりだ。

 世の中の5人に1人がHSPであるなら少数派ではあってもかなりの人が過敏な体質ということになる。とりわけ昨今のように競争が激化し、格差が大きくなればなるほど過敏な人たちは影響を受けやすい。とは言うものの、過敏性を抱えながらも他者に振り回されず自分らしく生きている人も大勢いるし、過敏だから不幸だというようなことは決してない。

 人生も残り少なくなってきたが、不平不満を言わず、感謝の気持ちを忘れずにマイペースで自分のできることをしていきたいと思う。

2017年9月20日 (水)

正しいアドラー心理学って何だろう?

 野田氏による岸見氏批判についての意見は「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」にすでに書いたが、野田氏の書いた「アドラー心理学を語る」シリーズの4冊を読んで、私は野田氏の主張する「正しいアドラー心理学」「正統なアドラー心理学」あるいは「標準的なアドラー心理学」の定義に疑問を持ちはじめた。

 「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマンギルドへの疑問」に書いたように、アドラー心理学と謳っていながら他者を操作することを教えているのであれば、それは確かに「正しいアドラー心理学」とは言えないと思う。しかし、「嫌われる勇気」に対する野田氏の批判はそういう視点ではない。

 私は岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」のほかに、岸見氏の「アドラー心理学入門」「不幸の心理 幸福の哲学」「生きづらさからの脱却」「叱らない子育て」「アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ」「アドラー 人生の意味の心理学(NHK100分de名著)」を読んだほか、小倉広著「アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉」、向後千春著「アドラー心理学のススメ」も読んだ。そして野田俊作氏の4冊シリーズも読んだ。

 それらを読んで感じたのは、著者の数に応じたアドラー心理学解釈があるということだ。

 野田氏は「性格は変えられる」の75ページでこう語っている。

―同じアドラー心理学でも、国によって違うんですか。
ずいぶん違いますよ。だいたいアドラー心理学っていうのはね、寛容というかルーズというか、「かくかくしかじかとアドラーは言った」って言いさえすれば、みんなアドラー心理学なんです(笑)。国によっても違うけれど、治療者個人ごとにもずいぶん違う。百人いれば百とおりのアドラー心理学がある。

 岸見さん、小倉さん、向後さん、そして野田さんの本を読んでみて、私も同様に思う。アドラーの言葉をどう解釈するかは人それぞれなのだから、アドラー心理学の解説書は必ず著者の解釈や意見が入ったものとなる。岸見さんは哲学の視点を取り入れた岸見流だし、精神科医として治療に取り入れている野田さんのアドラー心理学は野田流だ。

 これまで私が読んだ本は、著者の個性は感じられても、アドラー心理学の説明に関して大きな違いがあるとは感じられないし、まして間違いや重大な誤解があるとも思えない。岸見氏の「アドラー心理学入門」や「アドラー 人生の意味の心理学(NHK100分de名著)」も簡潔にまとめられているとはいえ、アドラー心理学の解説として偏っているとは全く思わない。「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」は個性的ではあるが、他のアドラー心理学の本の説明と比べても、間違いがあるとは思えない。

 「嫌われる勇気」で「課題の分離」が強調されているという面は否定しないし、本書でアドラー心理学をまんべんなく解説しているとも思わない。そもそもまんべんなく解説することを目的にしているというより、心理学などに縁がないような人にアドラー心理学の核心部分を明確に説明することを目的にしている本だと思う。率直に疑問を投げかける青年に哲人が明確に応えるという手法は、説得力を持たせることに成功している。

 「課題の分離」は共同体感覚を持つためには不可欠であるし、「空気を読む」習慣が身に染みついている日本人にとって「課題の分離」や「承認欲求」は意識すべき重要なポイントだ。ゆえに「課題の分離」や「承認欲求」に重きを置いていることに違和感はない。悩める青年(=多くの読者)に哲人が表意を突く回答をする展開になっているからこそ「嫌われる勇気」は読者を引き込むしベストセラーにまでなったのだと思う。

 だからといって「協力」や「共同体感覚」をないがしろにしているとも思わない。とりわけ続編の「幸せになる勇気」では貢献や信頼に力点が置かれている。また「課題の分離」が強調されているとしても、そのこと自体がアドラー心理学を誤解していることにはならないし、共同体感覚を理解していないということにもならない。

 野田氏はご自身のサイトで岸見氏批判を何度かしているが、野田氏の言う「正しいアドラー心理学」とか「標準的なアドラー心理学」というのは一体何なのだろう? 間違いとか標準から外れているというのも野田氏の意見でしかない。

 「嫌われる勇気」に関する批判は野田氏以外にもいろいろある。しかし、それらの批判の多くはむしろ読みが浅いゆえに誤解しているのではないかと感じることが多い。トラウマに関しては「トラウマを否定」「トラウマは存在しない」という言葉だけに反応している人もいるようだ。しかし本文をよく読めばトラウマやPTSDという症状の存在を否定しているわけではないことは十分理解できる。

 ちなみに、岸見さんはこちらの記事で「実はアドラー自身、第一次世界大戦中、軍医として、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療にあたっていました。トラウマの存在を知っていたのにあえて否定したのは、過去にとらわれず、これからをどう生きるかが重要と考えたからです」と語っている。トラウマが未来を決定するわけではないという目的論に則り「トラウマを否定」「トラウマは存在しない」という表現を用いたのだろう。

 私は目的論が間違っていると思わないが、人の言動や症状がすべて目的論で説明できるとも思わない。また、アドラーの目的論と現在の精神医療の現場で行われているさまざまな技法を用いたトラウマ治療は対立するものだとは思わない。重視する視点が違うだけであり、どちらかが間違っているというわけではないだろう。

 それから、「嫌われる勇気」の哲人の説明があまりにもストレートすぎるという批判もある。これにはメリットとデメリットがあると思う。ストレートな説明はアドラー心理学のポイントや概要を知りたい人にとっては理解しやすいし、自己受容が一定程度できる人ならストレートで厳しい指摘であっても受け入れられるし自分のライフスタイルを変えることに繋がる。しかし自己受容ができない、すなわち自分が不完全であることを受け入れられない人にとっては自分が批判されていると受け止めて嫌悪感を抱き、人によってはアドラー心理学を否定することになるだろう。したがって逆効果になる人もいるのも否めない。

 ただし、岸見さんがカウンセリングでクライアントに対してここで書いているようなストレートな指摘やアドバイスをしているとは到底思えない。確か、クライアントとともに解決方法を考えていくというようなことをどこかに書いていた記憶がある。この直截的な表現は明確な説明を意図した本であるからこそのものだろう。そこも勘違いをしてはならない点だ。

 「嫌われる勇気」に抵抗感がある人は野田さんの「アドラー心理学を語る」の方が読みやすいかもしれない。ただし、自己受容ができなければ野田さんの本を読んだところでライフスタイルを変えるという決断はできないと思う。

 「嫌われる勇気」批判に関しては、向後千春さんの以下の記事がとても的を射ている。

 アドラー心理学、「部下をほめてはダメ」の功罪 

 「嫌われる勇気」は批判する人がいる一方で、多くの人が高く評価し共感を呼んでいる。「嫌われる勇気」を自分の解釈に合わないという視点から批判することがアドラー心理学の発展につながるとは私には思えない。むしろ向後さんが指摘しているように、読者が誤解をしている部分があるなら、その誤解を解くような説明をするほうがよほど建設的だと思う。

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アドラー心理学をめぐる論争とヒューマンギルドへの疑問 
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野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う 
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野田俊作著「アドラー心理学を語る」についての感想

2017年9月11日 (月)

野田俊作著「アドラー心理学を語る」についての感想

 野田俊作氏は1982年にシカゴのアルフレッド・アドラー研究所に留学してアドラー心理学を学び、日本にアドラー心理学を持ち込んで日本アドラー心理学会を立ちあげた精神科の医師である。日本のアドラー心理学の第一人者といえば、やはり野田氏だろう。その野田氏が以前一般向けに書いたアドラー心理学の解説書「アドラー心理学トーキングセミナー」および「続アドラー心理学トーキングセミナ―」が、昨年末から今年にかけて「アドラー心理学を語る」というシリーズ本となって再版された。「性格は変えられる」「グループと冥想」「劣等感と人間関係」「勇気づけの方法」の4冊だ。

 このシリーズ本は3月に読み終えていたのだが、感想を書くタイミングを失してしまった。遅ればせながら野田さんの本を読んだ感想を記しておきたい。

 「性格は変えられる」および「グループと冥想」は対話形式で、「劣等感と人間関係」「勇気づけの方法」は対話形式ではないものの、どの本も具体例を取り入れながら独特な語り口によって分かりやすい解説書になっている。

 第3巻の冒頭で「第3巻と第4巻で、非専門家のアドレリアン(アドラー派の心理学者)が知っておくべき内容は、ほぼ尽くされているのではないかと思っています」と記されているように、この2冊でアドラー心理学の概要をひととおり解説するものになっている。第1巻の「性格は変えられる」はライフスタイルを変える方法と共同体感覚についてより具体的に説明している書であり、第2巻の「グループと冥想」はグループ療法について具体的に解説しているものなので、第3・4巻から読み始めても何ら差し支えはない。

 私は岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」でアドラー心理学を知ったのだが、「嫌われる勇気」および続編の「幸せになる勇気」では、いわゆる「勇気づけの」方法が今ひとつピンとこなかった。しかし本シリーズの「勇気づけの方法」では、どんな会話が勇気づけになるのか、あるいはどんな言い方が「勇気くじき」になるのかが具体的に示されていてとても参考になる。そして、私たちは実に「勇気くじき」の言葉の洪水の中に置かれているかということにも気づかされる。

 野田さんのこの4冊のシリーズ本は、アマゾンのカスタマーレビューでも高い評価が多く、定評のあることが伺われる。アドラー心理学を学びたいと思っている方や、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読んでさらに理解を深めたいと思う方には最適だと思う。ちなみに岸見氏は野田氏からアドラー心理学を学んだ一人であり、第3巻の末尾に「野田先生と私」という寄稿を寄せている。

 内容については本書に譲るが、ひととおり読んで感じたのは、この本はまさに野田流アドラー心理学だということだ。単にアドラーの思想を解説しているというだけではなく、精神科医として実際の治療に関する話しも多く、野田氏の独自解釈や独自手法が加わっている。野田氏が示している治療例の中には、本当にこんなアドバイスが効果的なのだろうかと首を傾げたくなるような驚くべき提案もある。アドラー心理学を熟知した医師ならではの発想なのだろう。野田氏の本は実例なども示しながら仔細に語られているのが魅力であるが、それと同時に個性が強いという印象も否めない。

 これらの本の中で私がとくに興味を持ったり印象に残った点について、いくつか書き留めておきたい。

 「縦の関係」と「横の関係」について、野田氏は以下のように述べている。

 この二つは、違ったライフスタイルに基づいています。つまり、縦の関係で暮らす人は、徹底して縦の関係ばかりつくって、決して横の関係を持とうとしない。逆に横の関係で暮らす人は、徹底して横の関係ばかりつくろうとする。相手によって縦になったり横になったりするというようなことは、実際にはまずありません。

 「縦の関係」と「横の関係」がライフスタイルの違いなら、ライフスタイルを変えない限り、一生「縦の関係」のライフスタイルの人は縦の関係を維持しようとする。これは実生活の中でもしばしば体験することだ。支配的である人は常に他者の言動に口をはさんで文句を言ったり批判をする、あるいは周りの人の空気を読んでそれに従う人は従属的でありやはり縦の関係だ。そして身の回りの人たちを見ていると、多くの人がこのような縦の関係のライフスタイルを持っていることに気づく。

 しかし他人を変えることはできない。ならば、相手ではなく自分が変わることで問題の解決をはかるというのがアドラー心理学の考え方だ。たとえ縦の関係のライフスタイルの人に悩まされているとしても、自分が変わることで関係性が変わってくるという指摘にはなるほどと思うし救われる。これは横の関係を築くためのひとつのポイントだろう。

 自己受容と他者信頼、貢献感は実は同じもので、共同体感覚の三つの側面であるという説明も、本書を読み進めていけば納得がいく。そう考えるとアドラー心理学はやはりシンプルといっても過言ではない。

 冥想が良いとの話しはいろいろなところで聞いて知っていたが、なぜ冥想が良いのかということが「グループと冥想」で説明されていてなるほどと思った。陰性感情は怒り、不安、憂鬱の三つに大別されるが、このうち不安は未来についての感情であり、憂鬱は過去に起因する感情だという。これらは思考することによって生じる感情なので、冥想によって「今ここ」に集中することで消えてしまうのだという。呼吸法などの冥想のやり方を解説しているわけではないのだが、ダンスを取り入れた野田氏のグループ療法などはなかなか興味深い。

 もう一つ、アドラー心理学の「共同体」の定義についてはちょっと目からウロコだった。私は小さい共同体は家庭や職場、大きい共同体は国家などを指すのだろうと漠然と考えていたのだが、アドラーが考えていた一番狭い定義が人類全体だという。そして最大の定義は全宇宙。そこまで広範囲を考えているとはまったく思っていなかった。しかし、宇宙が共同体という考え方はまさに共同体=自然ということだ。人は紛れもなく地球の生物の一員であり生態系の一員であるのだから、共同体感覚というのは自然の摂理に逆らわず生態系の一員として謙虚に生きるということでもあるだろうし、これにはすごく納得がいく。

 以前、NHKの番組で狩猟採取生活をして協力的な生活をしているアフリカのある民族にはストレスがないということを紹介していた。人類は誕生から長い間、自然の中で協力し合って生きてきたに違いない。さまざまな自然の脅威はあっても、人間関係つまり同種間でのストレスがほとんどない社会を持っていた可能性が高いし、それこそ健全な生物の姿だろう。狩猟採取生活の人類は協力的な暮らしをしなければ生きていけなかったのだろうし、共同体感覚が自然に身についていたのかもしれない。しかし、文明の発達とともに支配・従属という縦の関係あるいは競争的な社会へと変わる中で、共同体感覚を失ってしまったのかもしれない。とするなら、自分自身の中にある共同体感覚を揺り起こすことも不可能ではないのではないか? 私は、人は「良心」という形で共同体感覚を内在しているように思えてならない。

 最後に一言。野田氏は本書の中で一貫してアドラー心理学はお稽古ごとであるから本では学べないという主張をしている。大半の人が性格を変えないという努力を続けている以上、本を読んだからといって容易に性格を変えられるものではないと思うし、まして共同体感覚は簡単に身につくものでもなかろう。とりわけ縦の関係のライフスタイルの人や自己受容に抵抗がある人にとっては、本を読んだところで実践しようという意欲も湧かない気がする。

 しかし、すべての人が縦の関係のライフスタイルを持っているわけではないし、縦の関係や自己受容の程度も人によって強弱があるのではなかろうか。縦の関係のライフスタイルの人であっても、アドラー心理学の本を読むことで少しでも今までと違う視点を持つことができ、今の性格を保つのをやめようと決断したり、さらに深く学んでみたいと思う人もいるだろう。横の関係のライフスタイルに共感できる人はアドラー心理学を受け入れるのはさほど困難だと思わないし、実践しようと思う人も多いのではないか。

 講習会やワークショップに参加できればそれに越したことはないだろうが、だからといって本で学ぶことに意味がないとは思わない。また、本は何度も読み返せるという利点がある。本というのは一度読んだだけではすぐに忘れてしまったり十分に理解できないことも多いが、繰り返し読むことによって理解が深まる。野田さんのこのシリーズも、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」も時々本棚から引っ張り出して読んでいるが、繰り返して読むことによって、少しずつ自分のものになっていくのだと思う。

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アドラー心理学をめぐる論争とヒューマンギルドへの疑問 
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野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う 
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正しいアドラー心理学って何だろう?

2017年9月 1日 (金)

忘れさられる関東大震災

 今日は9月1日。そして9月1日といえば真っ先に思い出すのが関東大震災。ところが、朝刊(北海道新聞)をめくってみても社説に防災の日の話題があっただけで関東大震災のことに触れる記事はない。

 さて、あの大震災から何年経ったものかと数えてみたら、94年になる。たしか1915年(大正4年)生まれの父が子どもの頃だったはずだが・・・と、父の随筆を読み返してみると8歳の時だと書いてある。上野に住んでいた父は不忍池の弁財天で一夜を過ごしたというが、谷中方面を除いて上野は火の海に囲まれたらしい。考えただけでもぞっとする。

 上野の山(山といっても丘のようなものだが)には、ピーク時は約50万人もの避難者が押し寄せたそうだから、さぞかし大変な状態だったに違いない。残されている当時の写真を見ると想像以上の人の群れだ。

関東大震災90年目の夏・写真レポート 

 10万5千人もの死者、行方不明者を出した大震災から94年、考えてみれば、あの大震災を記憶している人はほとんど亡くなってしまった。それにしても、何年か前までは9月1日といえば防災の日ということで大震災のことが取り上げられていたような気がするが、もはや新聞でも取り上げられなくなってしまったとは・・・。

 日本は地震活動、火山活動が活発化していると言われている。東日本大震災から6年以上が過ぎたが、あのときの震源域の北側と南側には大きな歪みが溜まったままだ。アウターライズ地震が起きると予測している人もいる。熊本地震のように、日本ではいつどこで大きな地震が起きるか分からない。さらに恐ろしいのは、全国各地に原発があることだ。稼働しているのは限られているとはいうものの、各原発には大量の使用済み核燃料が保存されている。

 先日の北朝鮮のミサイルではほとんど意味のないJアラートを発信し大騒ぎをしていたが、大地震などの自然災害を忘れないために制定された防災の日は何やら影が薄い。何度も大地震を経験している日本だが、果たして過去の震災の教訓は生かされているのだろうか? 適切な避難指示を出せるのだろうか? 避難所の体制は万全か? 被災地にすみやかに物資を届けられる体制を整えているのだろうか? 原発事故への対処は? ミサイルより大地震や大津波への備えの方がはるかに大事だろう。

2017年8月29日 (火)

コンテスト商法と電子出版勧誘にご用心

 元文芸社社員のクンちゃんのブログにこんな記事が掲載されていた。

幻冬舎ルネupupか? 自費出版近況

 幻冬舎ルネッサンスがコンテスト商法を始めたようだ。コンテスト商法といえばかつて文芸社や新風舎が新聞広告を出して大々的にやっていて批判にさらされたのだが、一部の自費出版社では未だにやっている。批判されても生き延びているというのは、それなりに集客の効果があるのだろう。

 一見、良心的?と思える自費出版社でもコンテスト商法に手を染めるようになったところもある。おそらく他社と対抗するために取り入れたのだろうけれど、私の目から見たらコンテスト商法を始めた時点で胡散臭い会社としか思えない。あるいは、そんな商法に手を染めなければならないほど経営が大変だということなのだろう。

 まず、はっきりと言っておきたい。権威ある文学賞を受賞したなら確かにその作品は売れるし、著作者は作家として認められる。しかし、何の権威もない自費出版社が主宰するコンテストで入賞したところで、そもそも売れる見込みなどほとんどない。コンテスト商法などというのは、自費出版の顧客獲得のための手段でしかないし、コンテストにかかる経費だって著者から得たものだ。

 ここでは社名は伏せるが、とある出版社などはどう考えても実費以上の出版費用を著作者に請求するのに「自費出版ではない」などと説明しているらしい。恐らく、本の所有権と出版権が出版社側にあり、著者に印税を支払う契約をするので自費出版ではないと言いたいのだろうけれど、それを商業出版というのなら出版社はいくら負担するのだろうか? 出版社が全く費用負担せず顧客から利益をとる商法を商業出版だと説明するなら詐欺に近い。商業出版というのはあくまでも本を売ることで利益を出す商売だ。

 一昔前までは、自費出版といえば紙の本だった。ところが、昨今は紙の本だけではなく電子出版を勧める自費出版社も多い。電子出版ならずっと安くできるので、出版に大金を出したくない(出せない)人に勧めるのに好都合だ。で、自費出版社の電子出版の場合、数十万円程度は請求するようだが、それ位の価格なら何とかなると契約する人もいる。

 しかし、原稿を電子データで出すのであれば、電子出版などさほど費用はかからない。今は個人でも電子出版ができる時代だ。「電子出版 個人」で検索すればいろいろなサービスが出てくるし、費用は無料から数千円程度で済み、販売も可能だ。

 販売を考えないのなら、ブログで作品を発表するのが手軽だろうし、無料の小説投稿サイトを利用してもいいだろう。とにかく、スマホやパソコンで作品を読めるようにするだけならタダでいくらでもできる。

 私は自費出版の相談にときどき乗っているが、相談者の中にはコンテスト商法のことや電子出版についてどんなに懇切丁寧に説明しても、怪しげな出版社の商法に乗っかってしまう人が一定程度いる。出版社から出す方が有利だと思っているなら、完全な思い込みだ。出版社のサイトで自分の本が紹介されたからといって、素人の本を買う人がどれほどいるだろうか?

 「もしかしたらヒットするかも知れない」という夢を抱くなら、無料の小説投稿サイトで十分だ。そういうところでヒットしたなら、出版社から商業出版の声がかかる可能性もあるのだから。

 一度思い込んでしまった人はいくら説得しても無駄だし、その結果責任は自分でとるしかないのだけれど、出版社の思惑に簡単に乗せられてしまう人を見ていると溜め息しか出てこない。

 自費出版そのものを否定するつもりは毛頭ないが、「もしかしたら売れるかもしれない」「作家になるチャンス」などと期待している人は、コンテスト商法と電子書籍商法にはくれぐれも用心してもらいたいと思う。

2017年8月15日 (火)

敗戦72年に思う

8月15日。また敗戦の日がめぐってきた。私は「終戦」とか「記念日」という気になれない。広島と長崎に原爆を投下され、310万人もの犠牲者を出してようやく「負け」を認めた。戦争とは凄惨な殺し合いであり、人類の最大の愚行であることを日本人はあの戦争で思い知ったのではなかったのか。

そしてつくづく思う。戦争とは支配であると。相対する者(国)が論理や話し合いではなく力で相手を支配しようとし、そのために権力者が国民を支配して戦争に動員する。国民を戦争に駆り出すためにマスコミが洗脳装置として利用される。戦争とは権力者による支配と騙しでつくられる。

いったいこの世の中に、自分と何の関係もない人を殺したり、あるいは自分が殺されることを望む人がいるだろうか? 毎日、死の恐怖に怯えて戦いたいと望む人がいるだろうか? 殺人を嫌う、命を慈しむ、平穏な暮らしを望むという当たり前の願いに右も左も関係ない。

ところが愚かな人類は、ひとたび自分の利益が絡むと簡単に権力者に服従し、言いなりになってしまう。愚かな人類は、権力者の巧みな言葉に容易に騙される。そして殺戮の世界でしかない戦争へと巻き込まれる。犠牲になるのはいつも騙される人たちだ。

安倍首相は今、改憲という自分の悲願達成のために国民を騙そうとしている。内閣人事局を設置して官僚を支配することで安倍一強体制をつくりだし、政権内に強力な支配体制を確立した。そして、秘密保護法、安保法制、共謀罪と強行採決。マイナンバー法も国民を監視し支配するための法律に他ならない。

こうして、私たちはじわじわと体に綱を巻きつけられている。アベノミクスで目くらましをし、不都合なことは隠蔽し、国民を監視して自由に物を言えない状態にし、マスコミによって情報統制をする。その上で改憲をして戦争をする国につくりかえる。それが安倍首相の考えていることだろう。

加計学園問題や自衛隊日報隠蔽問題への対応で安倍首相の支持率は低迷している。とは言うものの、一度つくりあげた支配体制は簡単には崩壊しない。一度つくられた法律を廃止することも容易ではない。野党第一党の民進党も混乱し、支持率は低迷している。厳しい状態と言わざるを得ない。

果たして、日本人はこの危機的状況から脱して平和を守り続けることができるのだろうか。真の民主主義国家をつくることができるのだろうか。国民ひとりひとりの主体性と精神的自立が問われているように思う。国家に騙されていたなら、戦争は再び繰り返されるし、犠牲になるのは国民だ。

(今日のツイートより)

2017年8月12日 (土)

菅野完氏の民事訴訟について思うこと

 8月8日に菅野完氏が被告となって争っていた裁判の判決があり、菅野氏の弁護士がこの裁判に関しての記事を公開した。以下がその記事である。

 菅野完氏の民事訴訟について(弁護士三浦義隆のブログ)

 裁判になっていることは菅野氏もツイッターで認めていたが、詳細については沈黙を貫いていたので分からないままだった。このブログ記事によってだいぶ状況が分かってきたので感想を記しておきたい。

 最初に断っておくが、私は性暴力は重大な人権侵害であり、加害者を擁護する気は毛頭ないという立場だ。菅野氏の件に関しても、紛争の原因をつくったのは彼にあるし、そのことで菅野氏を擁護する気はまったくない。彼は自分の行為に対して責任をとらねばならないし、社会的制裁を受けることも甘受せねばならないだろう。

 ところで何らかの被害が生じて紛争になった場合、問題解決(責任の取り方)としては賠償金や謝罪を求める方法と、刑事罰や行政処分など法に基づいた処罰を求める方法がある。被害者は片方だけ行う場合もあるし、両方行う場合もある。

 前者は話し合い、あるいは調停や裁判によって進められ賠償金で償うことになる。被害の回復といっても起きてしまったことをそれ以前の状態に戻すことは不可能なので、謝罪と賠償金で解決するしかない。

 後者に関しては、加害者の行為が違法行為に該当する場合、被害者が告訴して刑事罰を求めたり行政処分を求めることもできる。

 また、法律に基づかなくても懲戒処分の対象になる場合は処分を求めるということもあるだろう。社会的制裁である。公益目的にマスコミなどが事実を公開することも加害者にとっては社会的制裁になる。これらも加害者としては甘んじて受けなければならない。

 さて、三浦弁護士の説明によると、X氏は代理人弁護士を通じて内容証明郵便で菅野氏に200万円の慰謝料を請求したという。いきなり調停や裁判に出たわけではなく、話し合いによる解決を求めたと理解できる。今回の件に関しては菅野氏本人も事実であると認めていて争いがないし、菅野氏も被害者に謝罪し賠償金を支払うことで和解による解決を望んでいた。そして、X氏の要求してきた200万円の慰謝料も受け入れた。

 謝罪をし、被害者が求めた慰謝料の全額を払うというのだから、ここで和解が成立するのが通常の経過だ。ところが、X氏は菅野氏のツイッターアカウントの削除や女性の権利問題に関する言論活動の制限に拘って和解を蹴り、裁判に打って出た。

 常識的に考えて、事件と全く関係のない要求が裁判で通るとは思えない。しかも裁判になればさらなる弁護士費用がかかることになるし、賠償金額も要求額より減る可能性が高い(実際、判決では要求額の半額の110万円だった)。自分に不利になるとしか思えない裁判を選択するというのは、極めて異様で不可解な対応だ。三浦弁護士も「菅野氏に社会的制裁を加えること自体がX氏の目的なのではないか」と書いているが、第三者の目からもそうとしか思えない。

 賠償金での解決を図る民事訴訟で制裁をすることにはならない。したがってX氏が民事での解決だけでは気が済まないのなら、菅野氏を告訴して刑事事件にするか、事実の公表をするなど民事訴訟以外の方法をとる必要がある。ただし、刑事事件にはなっていないようだ。刑事事件にするほどの違法行為があったわけではないのだろう。そんな中でX氏がとったのは週刊金曜日での公表という社会的制裁だ。

 週刊金曜日は記事を書くにあたり、取材によってX氏の可解な訴訟での対応を把握できたはずだし、X氏が菅野氏の私的制裁に強い拘りを持っていることを察知できただろう。であれば、性被害の事実だけではなくX氏側の不可解な対応も報道しなければ公平性を欠く。

 被害者が報道機関を利用して事実を公表するなら、それはあくまでも公益目的で行うのが筋だと思うし、報道機関側もX氏の言い分だけを垂れ流して個人的恨みによる報復に加担するようなことがないよう十分に配慮する必要があると思う。菅野氏の裁判をめぐって私が疑問に思うのは、まさにこの点だ。

 ところが、記事では裁判の不可解な経緯についてまったく触れられておらず一方的に菅野氏を糾弾する内容になっているし、事実をねじ曲げた部分もあるようだ。しかも記事が掲載されたのは菅野氏や裁判所が和解による解決を模索している裁判の最中だ。

 菅野氏は反省文の公表をX氏から拒否された。さらに性トラブルの加害者であるがゆえに、二次加害を避けなければならない立場だ。また係争中の事案であることもあり週刊金曜日の記事に対して反論も釈明も行わなかった。言いかえるなら、X氏は菅野氏の弱みにつけこんで彼の謝罪や釈明を事実上封じた上で、週刊金曜日に自分の主張だけを流したと言えよう。係争中だから記事にしてはならないという決まりはないが、こうした経過を知ってしまうとX氏のやり方に卑劣さを感じざるを得ない。こうしたやり方は、社会的制裁を通り越した個人的な報復感情による仕返し、嫌がらせとしか感じられない。

 週刊金曜日としてはこうした経緯を把握したうえで、もっと慎重に対応すべきだったと思う。事実に争いはないのだから、裁判が終わってからの公表でもよかったのではないか。被害者が報復のために週刊金曜日を利用したとも捉えられるし、週刊金曜日が被害者の報復に加担したとも捉えられるが、両方だったのではないかと感じる。

 X氏が週刊金曜日の記事の拡散を自ら画策したことについては、某ブロガーの告発記事からも明らかだ。私はX氏に利用された某ブロガー(菅野氏とは関わりのない性被害者)が、非公開前提のツイッターのグループメッセージでのやりとりを公開し、X氏のツイッター名まで公開したのは行き過ぎた行為だと思っているので、ここでは某ブロガーの記事をリンクさせることはしない。しかし某ブロガーが公開したやりとりを読んで、X氏は私的制裁のために他者を利用する人物であると感じた。X氏の発言や第三者を利用した拡散工作にもX氏の強い報復意識を感じる。

 しかも、週刊金曜日の記事のゲラのPDFファイルに週刊金曜日側が「うんこ」という名称をつけたことや、X氏が菅野氏を「うんこ」と称していたことも明らかになっている。いくら非公開でのやりとりであっても、第三者である報道人が被害者に同調して加害者を侮蔑する感覚に驚きを禁じ得ない。

 この件では、週刊金曜日のステマ疑惑を主張している人もいるが、私はその意見には与しない。ステマというより被害者の報復行為への加担であり、嫌がらせに近いと思う。

 私はどのようなトラブルにおいても報復行為には賛同できない。第三者である報道機関が個人の感情に基づいた報復、すなわち仕返し行為に加担することもあってはならないと考えている。報道機関が批判記事を書くのであれば公益性こそ重視すべきだ。報復行為は憎しみの連鎖を生むだけで決して建設的な問題解決にはつながらないし、場合によっては墓穴を掘ることにもなる。

 とは言うものの、被害者自身が違法行為や不法行為を伴わないやり方で報復するならそれは自由だろう。もしX氏が菅野氏に仕返しをしたいならば、ブログなどを利用して被害者自身が発信者となって責任を負うのが筋ではなかろうか。公表時期に関しても、菅野氏側に釈明や反論の場を与えるために裁判が終わってからにするのが公平なやり方だと思う。

 私的制裁のために民事訴訟を利用したり、自分自身で矢面に立とうとせずに報道機関を利用したり、その記事の拡散に菅野氏とは何の関わりもない性被害者の女性を利用するというX氏のやり方は、嫌悪感しか抱かせない。一方で、X氏との闘争を避け沈黙を貫いた菅野氏の態度は評価できる。

 何度も書いていることだが、私は自分の利益(あるいは復讐)のために他人を利用する人が大嫌いだし、たとえ被害者であってもそのようなことをやっていいとは思わない。

2017年8月 4日 (金)

エピジェネティクスから見えてきた貢献感と健康

 先日、近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」という本を読んだのだが、近藤氏によると血圧もコレステロールも高い人ほど長生きするというデータがあるそうだ。日本では生活習慣病の予防として血圧やコレステロール値を下げることが大事だと盛んに喧伝されている。近藤氏の言うとおり、血圧やコレステロールが高い人の方が長生きする人が多いなら、高血圧や高コレステロールが生活習慣病の原因とは言い切れない。

 私はもともと検診に関心がないのだが、癌の発症に関してもエピジェネティクスが関わっていることを知って以来、精神的に健康な人ほど病気になりにくいのではないかと考えるようになった。環境が遺伝子のスイッチの切り替えに関わっているのなら、「精神の健康」「幸福感」という心理的環境も病気などのスイッチに関わっていても不思議ではない。それが事実なら、単に血圧やコレステロール値などに気をつけていれば病気のリスクを減らせるということにはならないし、近藤氏の主張も納得できる。

 実は、こうしたことを裏付ける研究がある。

環境と遺伝子の間:あなたのエピジェネティクスは常に変化している 

 この記事で私が特に興味深いと思ったのは、「深層心理が免疫細胞のエピジェネティクスに変化をもたらす」という指摘だ。重要な部分を以下に引用しよう。

この結果によると、強い孤独感は、心臓病、アルツハイマー病、関節炎など、炎症を伴う病気のリスクを上昇させ、さらにウイルス性の風邪などにかかりやすくなることを示唆している。面白いのは、「どれだけ社会から疎外されているか」という客観的な事実ではなく、「本人がどれだけ孤独を感じているか」という主観的な感情のほうが免疫細胞との関連性が強かったことだ。

 ここで言う孤独感とは、友人や知人との交流が少ないとか、一人暮らしをしているといった単純なことではなさそうだ。友人が少なくても、あるいは一人暮らしをしていても、本人が孤独を感じていないということもある。たとえば公益性のあることにこつこつと取り組んでいるとか、公益目的に情報を発信しているというような人は、孤独感はあまりないかもしれない。たとえ多くの人に囲まれて暮らしていても、周りの人から受け入れてもらえずに寂しさを感じていれば、たぶん孤独感が強いということなのだろう。自己中、あるいは独裁的な人ほど人と他者と深い信頼関係が築けず、孤独感が強いと言えるのかもしれない。

幸福の種類によって免疫細胞の遺伝子スイッチが変化するのはにわかに信じがたいが、コール博士らが研究で得た結果とはそういうものだ。物欲を満たすことや、おいしいものを食べるという行為で得られる短期で浅いHedonicな幸福では、免疫細胞が活性化するどころか孤独感を感じているのと同じようなエピゲノムのパターンが見られた。逆に社会に貢献することで人生に意味を見出すような、深い満足感を伴うEudaenomicな幸福感では、炎症反応に関連する遺伝子が抑えられ、抗ウイルス反応に関連する遺伝子はより活性化されていた。

 この結果は非常に興味深い。目先の欲求を満たすことで得られる快楽主義的、自己満足的な幸福感は、孤独感を感じている人と同じような変化を免疫細胞にもたらすというのだ。つまり、病気のリスクを高めるように働くという。

 これに対し、社会や他者に貢献したり、よりよい人間に成長するために挑戦することで得られる幸福感は、病気になるリスクを低下させるという。

 この結果に「真の幸福感」とは何かが示されていると思う。つまり、つまり物欲によって得られる快楽や自己満足による快楽は、真の幸福とは言えないのではないかということだ。ファッションや化粧で自分を飾ることで得られる満足感なども同じではないかと思う。自分の欲求が満たされればそのときは満足感があるだろうけれど、それはずっと続くわけではない。有名になったりお金持ちになれば必ず幸せになれるとは言えないのと同じだ。

 このような浅い幸福感は、元をただせば私利私欲や損得勘定からきている。自分の利益だけを求めるところに真の幸福感はないというのは、感覚的にも理解できる。

 これに対し、社会や他者に貢献することは、私利私欲や損得勘定とは無縁のものだし、利他行為といえよう。

 人類は集団をつくり、仲間と協力して生き延びてきた。狩りをするにも外敵から身を守るにも仲間との協力が必要だし、得られた食糧も集団内で均等に分けなければ集団生活はうまくいかない。子どもや高齢者などの弱者を守るのも集団生活をしてきた人類の特徴だ。集団内で独善的にふるまっていたら仲間から信頼されないし、うまくやっていけない。こうした共同体での協力関係こそ貢献感の源であり、人はそこに自ずと幸福を感じるのだと思う。だからこそ、利他行為は病気への耐性を高めるように進化してきたのではなかろうか。

 ここで言う「貢献感による幸福感」こそ、アドラーの唱える「共同体感覚」なのだろうと思う。また「孤独感」とは、「共同体に所属できていない」ということではなかろうか。このエピジェネティクスに関する研究は、アドラー心理学が正しいことを裏付けているように思える。

 近年は競争社会や格差の拡大によって、人々がいがみ合うようになったと実感している。他人と競争し相手を蹴落として優越感に浸ろうとしたり、復讐しようとする心理は、共同体感覚とは対極にある。他人を貶め叩くことで満足感を得ようとする行為も同様で、真の幸福感とは正反対のものだろう。このような心理状態の人は精神的に健康とは言えないし、決して幸福になれないばかりか病気のリスクを自ら高めているのかもしれない。

 怒り、イライラ、憎しみなどといった感情は、自分の意志にかかっている。怒ったりイライラしたり他者を憎んでも、目の前の問題を解決するためには何の役にも立たないどころか人間関係を悪化させるだけだ。そのことを理解すれば、怒りもイライラも憎しみも消えるし、感情的にならなければ冷静に問題解決方法を探ることができる。「真の幸福感」も「健康」も、自分自身が決めている部分が大きいのかもしれない。

2017年7月31日 (月)

今年の家庭菜園

 ブログをほったらかしていたら、もう7月も終わり。ということで、とり急ぎ今年の家庭菜園の様子をアップしておきたい。

 わが家の庭は以前は花卉園芸だけだったが、近年は蔬菜園芸に移行してきている。花の苗を育てるのが億劫になったとか、玄関周りに飾った花をシカが食べてしまうようになったということもあるが、野菜を作る楽しみを知ってしまうと止められない。

 今年は、リーフレタス、ルッコラ、ズッキーニ、ミニかぼちゃ、大根、スナップエンドウ、パセリ、人参の種を蒔いた。

 リーフレタスは毎日食べているが、生長の方が速くて食べきれない。P10801251


 大根(ミニ大根)も少しずつ時期をずらして種まきをしたのだけれど、こちらも食べるのが大変。しょっちゅう大根サラダを食べている。 P10801322

 スナップエンドウも毎日収穫して思う存分食べている。 P10801343

 ミニかぼちゃもどんどん伸びてきて、小さな実をつけはじめた。 P10801304

 ズッキーニは今年はじめて作ってみた。かぼちゃの仲間で、朝に花が咲き昼にはしぼんでしまう。雄花と雌花が同時に咲かないと実がつかないのだけれど、雄花だけしか咲かない日とか、雌花だけしか咲かない日もけっこうある。当たり前だが、受粉できないと、実は大きくならない。 P10801215

 こちらはひよこ豆(ガルバンゾ―)。暑さと雨に弱く日本では栽培が難しいと言われている。うまく栽培できるかどうかわからないので、試しに50粒ほど蒔いてみた。今年の猛暑も何とか耐え、7月下旬から白い小さな花をつけはじめた。はたしてどれ位収穫できるものか。 P10801266

 わが家の周りはエゾシカがうろついていて、家庭菜園を虎視眈々と狙っている。柵や網で囲わないと家庭菜園など到底楽しめないのだが、その網を口でくわえて引っ張ったり、くぐって中に入ろうとする。先日は出入口の網を支柱ごと倒されてしまった。シカは驚いて逃げたようで幸い食害はなかったが、入られたらけっこう悲惨なことになる。エゾシカの姿を見かけること自体が珍しかった頃には考えられなかったことだ。

«民主主義が殺された日

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